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2020年12月29日火曜日

思考をストップさせる3つの要因

◇ 他人の考えを尊重する
 けれど多くの場合、それは「他人との交流を避ける」ことにしかならない。お互いの考えが深まることもない。他人の「考え」とはいっても、実体は単なる「好き嫌い」や「思いつき」である場合がほとんどなんだもの。

◇ 論理的に語る
 けれどそれができるのは、最後の最後だ。いや、そんなときは永久にやってこないのかもしれない。それができるまで何も発言もしないとしたら、いつまでも何もできない。何も考えることができない。

◇ 正しいことを書く
「客観的で、例外がなく、誰がみても正しいもの」を書こうとする人がいる。だけどそれだったら、書く意味がない。そして読む人にとっても、読む意味がない。正しいこと=当たり前のこと、なんだもの。

・・・と3つばかり並べてみた。
 一見どれも立派なことのように聞こえるが、これらは実は「思考をストップさせる要因」に他ならない。せっかく思考の芽が出てきているのに、それを摘み取ってしまっているのだ。

 では、どうすればよいか。逆のことをすればよいのである。
     ◇ 他人の考えに、自分の考えをぶつける
     ◇ あいまいなまま考え、しゃべり、表現する
     ◇ 視点を定めて、自分の見方を書く

 こんなことを書いているうちに「思考をストップさせる要因」の4つ目も見えてきた。

◇ 外に情報を求める
 自分の外にある情報は、自分というフィルターを通して取り込まれ、自分の経験の1つとして蓄積されます。そして他の経験と融合して、やがて自分のものになります。
 この方法は、自分の思索のバックボーンを養うにはとても有効な方法です。けれども目の前の具体的な問題解決には、まったく不向きなのです。なぜかというと、
   1.個別の問題にジャストフィットする情報に巡り会える可能性が小さい。
   2.巡り合えたとしても、自分が理解し会得するまでに時間がかかる。
   3.そもそも考えている最中には、
       自分が何を考えているのか、何を求めているのかがクリアでない。
からです。では、どうすればいいのでしょうか。

→ ネタは自分の中にある
 自分の内なる情報に目を向けることの方が、外の情報を求めるよりもはるかに効果的です。なぜかというと、
   1.自分の中には、
     これまで生きてきた中で経験し学習し考えたことが無限に蓄積されている。
   2.それらが自分の中で融合し、熟成して、飛び出すチャンスを待ち構えている。
   3.それらが自分に対して働きかけている。だから、自分はいま考えている。
からです。だから、外の情報を探し求めるより、目を閉じて自分の中を見つめた方がいいんです、きっと。
 自分こそがネタの宝庫。最大の情報源は、自分なんです。すぐに外に情報を求めるのは、自分を信用してないってこと。これもまた思考の芽を摘み取ってるだけなんだ。・・・もったいないったらありゃしない。

 続いて、話をストップさせるのに効果的な、3つのセリフを紹介します。

◇ まっ、人それぞれですから
 このセリフは、あらゆるものを優しく包み込んでくれます。 要するに「何でもアリ」ということですから。何気ないセリフのように見えますが、それまでの話がスムーズにストップします。いかなる分析も、いかなる主張も、吹っ飛んでしまうくらい威力があります。

◇ それって、差別発言ですよ
 これは、相手の口の中に饅頭を丸ごと押し込むのと同程度の効果があります。相手は少なくとも3分間は、何もしゃべれないはずです。人がタブー視していることに、報道機関は触れない。それと、同じ原理です。

◇ 以上、わたしの感想です
 このセリフは、自分の発言に突っ込みを入れて欲しくないときに使います。相手が冷静なら、「あぁそうですか」しか言えなくなります。それでも突っ込まれたら、1番上に書いたセリフを使いましょう。「まっ、人それぞれですから」と。

2020年12月28日月曜日

☆ ブログにはバカなことを書きたい

 今から14年前、年末年始の4日間にわたって私がSNSに上げた文章を、そのまま載せます。タイトルも当時のままです。今にして思えば、私のSNSライフのスタートラインはここにあると言えるでしょう。
 読み返して思うのは、14年経っても何も変わっていないということ。多少はまとめるのが上手になったのでしょうけれど、問題意識は変わっていない。今だに答えが見えていないとも言えるし、当時すでに答えが見えていたとも言える。

  ◇ ブログにはバカなことを書きたい    (2006年12月30日) 
  ◇ 続・ブログにはバカなことを書きたい   (2007年1月1日) 
  ◇ ブログにはバカなことを書きたい:第3弾 (2007年1月2日) 
  ◇ ブログにはバカなことを書きたい:第4弾 (2007年1月3日) 

 そして「タイトルのその気持ちを持ち続けよう」という心意気に改めて同意したい。そう、最近わりとまともなことばっかり書いていることを大いに反省しなきゃいけない。

ブログにはバカなことを書きたい

(2006年12月30日)

 「バカなこと」というのは語弊がありますが、ブログで「チャレンジしたい」というボクの思いを書きました。知ってることだけでなく、「考えてる最中の、まだ形になっていないもの」を書きたいということです。そうすれば、イヤでも「バカなこと」になるはずです。
 完全なパブリック環境では「バカなこと」を書けません(ホントのバカになってしまいます)。完全なプライベート環境では「形にしよう」というモチベーションが働きません。
 ブログは、プライベートとパブリックの中間にあります。そのビミョーなポジションが、チャレンジするのに絶妙だと思うわけです。「人目に晒す」という多少のプレッシャーが効果的なんですね。
 疑いようのない事実ばかり書いてもつまらない。個人的な感想ばかりをつづってもつまらない。自分にとっての問題を「考えるためにブログを書く」っていうのも、アリだと思います。
 中途半端でもご勘弁、意味不明でもご愛嬌。それに共感する人が現れるかもしれませんし、コメントやトラックバックからヒントを得られるかもしれません。(ブログはそんな可能性を持っています)

 ボクはこれからも「バカなこと」を書き続けます!(もっとがんばんなきゃ)

続・ブログにはバカなことを書きたい

(2007年1月1日)

 一昨日の続きです。正月三が日は、バカなことを書きたいと思っています。後で読んで恥ずかしくなるようなものを書くことが、目標です。

 さて、今日のテーマは「バカなことを書くための条件」です。バカなことが書けるためには、いくつかの条件があると思うんです。それについて、考えます。
 なぜそんなことを考えるかというと、ものを考えるためには必ずそのステップを踏むと考えるからです。何が問題なのかが自分でもわからないような問題に取り組むことを、ここでは想定しています。答えはもちろん見えないし、答えがあるのかどうかもわからない。問題そのものも不明瞭だから、人に質問することもできない。その問題について発言すれば、イヤでも「バカなこと」になるに違いありません。
 問いが明確であれば、スマートに考えることもできるでしょう。しかし明確な問いにばかり答えていては、問いを立てる力が弱くなっていくのではないかと思うのです。
 ついつい考えてしまう問題を抱えている人はラッキーだと思います。それを書けばよいのですから。
 でもね、人間ってきっかけも何もないところで考えたりはしないと思うんですよ。何かしらつかんでるから、でもよく見えないから、考えちゃうんだと思うんです。
 つまり、疑問=ヒント だと思うんですね。疑問を持った時点で、すでに解答までの道なかばにある、と。

今日の結論。 バカなことを書くための条件は、

  《条件1》疑問を感じる能力を持ち続けている。
       それを失わないためにも、時々やった方がいいんじゃないかな。
  《条件2》その疑問が自分にとっての「チャンス」であることを知っている。
       それ(疑問や悩み)をネガティブにみる発想じゃダメですね。
  《条件3》一定期間それを考え続けるタフさ・ラフさ・ズウズウしさを持っている。
       でも、それが楽しいといえば楽しいんです。

 さて、年始早々のバカ発言、いかがだったでしょうか?
 まったく説得力ありませんね。とても人に読ませられるようなものじゃありません。後で読んだときに恥ずかしいと思うのでしょうか。 だとすれば・・・当初の狙い通りと言えるのかな?

ブログにはバカなことを書きたい:第3弾

(2007年1月2日)

 正月三が日は、バカなことを書こうと心に決めました。
 今日のテーマは「事実より、ものの見方」です。あるいは「事実より、仮説」と言いかえることもできます。「前者より後者の方が、価値がある」ということを考えてみようと思います。
 意味不明の文章になることは必定ですが、もとより覚悟の上です。現段階では「バカな発言」でも、「そのうち形になるだろう」という期待があるから、書くわけです。

 「事実」とは「=誰が見ても正しいもの=客観」と言えるでしょう。「見方=仮説」はさらに言い換えると「=解釈=考え方=主観」となりそうです。また「事実は1つ、ものの見方はたくさんある」という比較もできるでしょう。
・・・と、ここまで書いてきて、ボクの問題意識からズレてきているように思いました。
・・・両者を比較することがボクの課題ではないんですね。

 実はこの問題、昨日からもう丸1日考えています。その間に「事実と見方」を比較しながら、文章を書いたり消したりしてました。そして気がついたんです。
 なぁんだ、「そんなふうに考えようよ」で十分なんだ、と。

 考えてみると、ボクのテーマ「事実より、見方」そのものが、ものの見方であり、仮説です。こんなものが事実であるなんてことは、ありえません。
 ところで、2者を比較して1者の優位性を示そうとすることは、事実を求める姿勢です。それが悪いとは言いませんが、「事実より、見方を」という自分の主張にはそぐわないわけです。
 結局ボクが言いたかったのは、
  ・ きちんと証明できるまで発言しなかったら、何も言えないよ。
  ・ 仮説あるいは考え方として、発言すればいいじゃないか。
ということだったんでしょう。

「そんなの当たり前だ!」だって?
「そんなこと1日中考えてるなんて、ホンモノのバカだ!」ですって?
 いや、そうでもないんです。情報科の授業で生徒に「自己表現」させているボクにとっては、これは切実な問題だったんです。きっと。実際に授業をやってみると、こんなふうに思ってる生徒がいるように感じるんです。
  ・こんなこと(自己表現)やって、ナンの意味があるんだ。
  ・そんなものどーでもいいから、情報科の授業ではコンピュータ使わせろ。

 あるいはこんなふうに言われるかもしれませんね。「お前は自分をごまかしてるぞ」、「自分の問題から逃げてるんじゃないか」と。
 いや、そうでもないんです。
 事実の価値基準が「正しいか否か」だとすると、見方の価値基準は「妥当か否か」です。だから、ボクの考えが正しいか否かは関係ないんです。ボクの考えが「妥当だ」と人(生徒)が思ってくれれば、それでいいんです。

 さて、今日のバカ発言はいかがだったでしょうか?
 バカなことを書くつもりが、あんがい体よくまとまってしまったような気もするし、答えになっていないような気もするし。。。

ブログにはバカなことを書きたい:第4弾

 (2007年1月3日)

 バカ発言、とりあえず最終回の予定です。
 過去2回はまずテーマを立ててそれから考えましたが、今日は違う順序でいこうと思います。この手の問題を考える場合、問いが明確に立っているということはありえないと思うからです。「問いと思索と答えは一体」もしくは「問いは答えの一部」であるということなんでしょう。
 そして実際に、いま現在ボクはその 問い=テーマ を立てられない でいるのです。バカ発言をするのに、ちょうどいいあんばいですね。でも最後には「問い=テーマ」と「答え」がある程度見えるようになっていることを期待しながら、始めます。
 この3日間、「バカなことを書こう」と決めて実行してきましたが、けっこうキツイんですね。これってナンなんだろうってことを書きたいわけです。同時に「日常のことや感想をダラダラ書くのはラクだよなぁ」と思ってしまいました。

 ボクがトライしている問題がどういうジャンルに属するのか、から考えましょう。
 これって、思春期にたいていの人が経験するのと同じジャンルなのかもしれません。あるいは、実はみんないつも似たようなことを考えているのかもしれません。
 でも、ボクにとっては「久しぶりだなぁ」って感じです。このジャンルにネーミングするとしたら、何がいいんでしょうか?
 ボクは「このジャンルのことをやることに、意味があるのかないのか」を考えようとしているのでしょうか。
 いや、ちょっと違いますね。「意味がない」と考えるなら、最初からこんなこと書くはずがありません。それを言うなら、「意味があると言おうとしている」ということになるでしょう。
 でも、世の中を見ると、みんながこんなことに取り組んでいるようには見えません。実際にはしているのでしょうけれど、はっきりと目に見える形にはなっていませんね。
 テレビではバラエティーばかりやってて、みんな楽しいことばかり考えているように見えます。生徒の発言にもブログの記事にも「おもしろいことを、気の効いたことを」という熱意ばかりを感じます。
 かたや、いまボクが考えているジャンルのことは、非常にマイナーな存在になっているという気がします。・・・ボクは、それの復権を考えているのでしょうか。
 先ほどから「ジャンル」とか「それ」と書いてますが、やっぱりうまくネーミングしたいですね。そうじゃないと、わかりやすい文章にならないし、まとまりませんものね。
 ・・・ここで、気がつきました。うまくネーミングできれば、問いと答えが引き出せるかもしれない、と。。。

 中途半端ですが、今日はここで終わります。3日間ブツブツ考えてきてよかったと、いま思っています。ときどきこんなのやらないと錆びれるよね、とも。そして、こんなブログの使い方もアリだよね、って。

2020年12月6日日曜日

子どもに聞かれたらどう答えるか?

 SNS上の友人からの問いかけ、「子どもに聞かれたらどう答えるか?」
  • 「うまくいかないことがあるときどうしたらいいの?」
  • 「おかしいな、と思うことがあるときどうしたらいいの?」
  • 「みんながわかってくれない、と思ったときどうしたらいいの?」



 それに対して応えたこと。ここに記録しておく。

○ 「うまくいかないことがあるときどうしたらいいの?」
→ 君が難しいことにチャレンジしてるってことだろうな。簡単にできることだけやっていれば「うまくいく」だろうけれど、それじゃつまらないでしょ。だから、うまくいかない方がいいんだよ。

○ 「おかしいな、と思うことがあるときどうしたらいいの?」
→ 君は何かに気づいたんだね。はっきり言葉にならなくても、直感的にわかっちゃったんだよ。その感覚を大事にしてほしいな。忘れずにいれば、その直感が正しかったってことがやがてきっとわかる。

○ 「みんながわかってくれない、と思ったときどうしたらいいの?」
→ 凡人には理解できないくらいの天才ってことなんだろうな。だからわかってもらおうなんて考えない方がいい。君が凡人のレベルに合わせたら、君も凡人になっちゃうぞ。君は天才でいた方がいい。

2020年10月14日水曜日

あと1つ言え

◇ ヘリクツでもいいから、理屈を言え 
◇ ウソでもいいから、理由を言え 
◇ 間違っててもいいから、説明しろ 
◇ 言葉にならなくてもいいから、口に出せ 
◇ ハッタリでもいいから、あと1つ言え

1つ目はネットで見かけた言葉。
そこからの類推で2つ目と3つ目と4つ目が出た。
他に何かないかなぁと考えて、なんとか「あと1つ」出した。
この心意気で ブログ に挑む。

2020年6月7日日曜日

民主党と共和党について考えてみた

 ネット上の友人(現実でも知り合い)から質問が飛んできた。
共和党が民主党に比べて優れているところ、劣っているところについて、あなたはどういうイメージですか?
「そんなもん知らんがな」と言ってもいいところだけど、面白そうなので、考えてみた。やり取りするうちに、
宗教面とか科学面ではどう思いますか?
こんな風に展開して、最後はお得意の アンパンマン・ワールド で締めくくった。お互いにやり取りしたものを整理してここに記録しておく。



 共和党は「大きな政府」、民主党は「小さな政府」。ざっくり言えば、そんなイメージ。
 初期にアメリカに渡ってきた移民はプロテスタント系で、その宗教観は資本主義と相性が良い(勤勉・金儲け=神の御心にかなう行為)。今の民主党にその発想が根強いのかもしれないな。対する共和党は、差別され相対的に貧しかった黒人や、遅れてアメリカにやってきた中南米からの移民が支持していると考えると、共和党系の宗教観はカトリック系が比較的強いことになり、資本主義的価値観は相対的に弱いことになる。
 カトリックが「教会に助けてもらおう」という発想なのに対して、プロテスタントは「自分だけは天国に行くぞ」的発想。そう考えると、前者が「共和党=大きな政府」、後者が「民主党=小さな政府」という論となかなか符合するように思う。
 カトリックは「神の意志の探求→哲学」的傾向があって、プロテスタントは「神の意志の実現→そのために科学でも何でも使えるものは何でも使う」という傾向がある。「神が世界を作ったんだから、進化論は間違いだ」と言い張る人たちはカトリック系≒共和党系に多いような気がする。プロテスタント系≒民主党系はもうちょっと合理的かつ現実的な考え方をしそうだ。
 他国と競争するには民主党的態度が有利、一方でそのせいで貧富の差が大きくなった。それを是正する方向に進もうとするのが共和党だが、競争力が損なわれかねない。民主党はグローバル時代に「戦って勝とう」という人には向いている。でもそれでは未来はないので、「国に守ってもらおう」という共和党的考え方でバランスを取ろうとしていると考えれば良いのかな。
 でもまぁ一番良いのは、神の恵みを「みんなで分け合おう」という「八百万の神」的発想をする日本人だろうな。それをよく表しているのが アンパンマン・ワールド なのだよ。

 以上、アンパンマンに行き着いたところで、おしまい。



 無責任に、勝手に考えて勝手に書いてみた。こんな態度が実は大事、と私は本気で思っている。常々こういう態度でいることで磨かれるものがあるんじゃないかな。人工知能に負けない能力はこうして身につくんじゃないか。我ながらそう思った。

 友人とのやり取りが続く。

友人:大衆化社会は間も無く終わるのかもしれない。AIの発達によって。
 私   :面白い時代じゃないか。そんな時代に世に出る君たちってラッキーだよね。
友人:でもこの世を動かしてるのはあなた世代ですよ。
   原宿JKもあなたたちの目論見通りでどうとでもなれますもん。
 私   :高校を脱出した今、もう自由じゃないか。 
   どうせ年寄りは口先だけで、大したことできない。
   だから、君らの好き勝手にやれば良いんだよ。年寄りはついてくるに決まってる。
   僕ら世代の強みは、とりあえず金持ってること。それだけ。
   金で勝負しようとするな。 
   アイデアと行動力と使命感で勝負すれば、絶対君らの勝ち。

 友人は今、大学生である。このやり取りの前に話していた「アメリカの民主党、共和党」と同じく、大した根拠もなく勢いで発言したのだが、大学生というお年頃はこれくらいハッチャケていいと思うんだよなぁ。

2020年2月2日日曜日

☆ 答えのある問題 と 答えの無い問題

◇ 正誤の問題 と 意思の問題 
◇ 答えのある問題 と 答えの無い問題 
◇ オープン・エンドな問題 と クローズド・エンドな問題 

正誤の問題 と 意思の問題

 記事「そもそも議論とは何なのか?」に戻るわけではありませんが、ここで似たようなことを考えます。
◇ 議論とは何なのか?
いや、全く同じことを考えようとしているわけではないんです。何が言いたいのかというと、この問題は「正しいか間違っているか」という「正誤の問題」ではなくて、「どのようにとらえるか」という「意思の問題」だということです。
 みなさん、お気づきでしょうか? 世の中の多くの問題は「正誤の問題」ではなくて、「意思の問題」だということを。たとえば、
◇ 今日の昼メシは、マックにしようか? それともラーメンにしようか?
これは、どっちが正しいかという問題ではありません。どちらを選択するかという意思の問題です。この例は自明でしょうけれど、
◇ 何ベクレルまでなら食べても大丈夫か?
という問題も同じです。これは「どこまで許容するか」という意思の問題です。これを正誤問題ととらえると、議論が無意味なものになってしまいます。放射線量が低いに越したことは無いのですが、ゼロ・ベクレルのものだけを食べるのでは生きていけませんから。
◇ 太陽が地球の周りをまわっているのか? それとも地球が太陽の周りをまわっているのか?
これも同じです。別にどちらの立場に立っても構わないのです。両方とも正しいのです。問題は「どっちが正しいか」ではなくて、「どちらの見方をした方が宇宙を理解しやすいか」ということであって、誰かが(たぶん専門家たちが)「地球が太陽の周りをまわっている」ととらえた方が理解しやすいだろうと判断して、「そのように考えることにしよう」と決めたのです(ちなみに、「太陽は東から昇って西に沈む」という言い方は「太陽が地球の周りをまわる」という天動説的な立場の表現ですが、間違いではありません)。だから、この件も意思の問題なのです。他には、
◇ 原発は安全か?        とか、
◇ 日本の年金制度は破綻するか? とか、
◇ 宇宙に果てはあるか?     とか、
これらも全部、意思の問題なのです。これらを正誤問題だと考えるから、混乱したり炎上したりするのです。
 それにしても、学校のせいか、テレビの影響か、いろんな問題を正誤問題だと勘違いする人が多い。学校では事あるたびに○×をつけ、テレビでも○×クイズばっかりやってます。その効果がてきめんに出ているということでしょう。それはそうと話を戻すと、私は
◇ 議論というものをどのようにとらえたら良いか?
というその「とらえ方」を提案したいわけです。ですから、まず私にとってこれは意思の問題です。そして、みなさんにとっては、私の提案を受け入れるか否かという意味で、やっぱり意思の問題だと思うのです。
 それを提案することで私がみなさんに期待するものは、納得です。理想的には、共感です。ところで、私がそこに書くことに対して「それは違う!」とか言われても困るのです。私は「正しいこと」なんて何一つ言うつもりはないのですから。

答のある問題 と 答の無い問題

 論理式は「そぎ落とす」論理です。ニュアンス(豊かさ)をそぎ落とし、あいまいさ(境界)をそぎ落とし、背景(個別事情)をそぎ落として、骨格だけを抜き出して、真偽判定に持ち込みます。一方、議論の論理は「取り込む」論理です。いろんな見方・考え方を取り込み、異論・反論を取り込みます。また、他人の共感を得るという意味では、他人の受け取り方・理解度までも取り込みます。
 別の言い方をすると、論理式は「答のある問題」です。議論は「答の無い問題」です。論理式は、議論の中の一部分で道具としては有効に使えますが、論理式をいくら駆使しても議論の答えは出てきません。同じように、「答のある問題」は「答の無い問題」に取り組むときに道具として使えますが、「答のある問題」が「答の無い問題」に答えを与えてくれるわけではありません。議論に真偽判定に持ち込んだら必ず偽になるように、答えの無い問題に「正しい答え」を求めたら、問題そのものが成り立たなくなります。
 さて、「正しい答え」を求めないなら、議論することで何を求めればいいのかというと、「暫定的な仮の答え」ということでいいんじゃないでしょうか。その形の1つは「意思決定」です。それが「絶対に正しい答え」でないことを承知のうえで、適当なタイミングで判断するということは、実社会では当たり前にあることです。そしてそれは、その後に「変わりうる」ものです。
 俗に「答えの無い問題」と言いますが、本当は答えが無いのではなく、「答えが変わりうる問題」なのです。ということは、問いも変わりうるのです。そして、なぜ問いと答えが変わるかというと、議論の論理が「取り込む」論理だからです。取り込む余地はいくらでもあります。時間とともに、あるいは自分が成長するのに伴って、いくらでも変わりうるのです。取り込んでどんどん豊かになるから、問いも答えも変わるのです。
 これは「答えのある問題」にはありえないことです。答えのある問題では、どこかに必ず「正しい答え」があります。しかも、それは「変わらない」ものです。学校のテストの問題には先生があらかじめ仕込んだ答えがあります。というより、実際には答えから逆算にして問題を作っています。それが「正しい答え」になるように、ニュアンスやあいまいさや背景をそぎ落として、「答えが1つに決まる」ように問題文を作っています。ですから、その問題に答えがあるのは当たり前なのです。というより、答えが無かったら「問題の不備」なのです。学校で扱う問題に限らず、なぞなぞでもクイズでも検定試験でも「答のある問題」とはそういうものです。
 問いと答えはいつもセットです。がっちりした答えが先にあって、そこに行き着くように作られたものが「答のある問題」です。答えが見えないけれど、何とかしなければならない課題や漠然とした疑問が先にあって、考えるための取っ掛かりとしてとりあえず立てた問いが「答の無い問題」です。そのようにとらえてもいいでしょう。
 答えのある問題とは、典型的には学校の授業や試験で出される問題でしょう。けれども、学校から一歩外へ出ると、生活を送る上であるいは仕事上で出くわす問題は、その多くが答の無い問題です。答えの無い問題は実は問いが必ずしも定まっていない問題で、答えが見えてくるにつれて問いも少しずつくっきりしてきます。そして、問いも答えも変わっていきます。その「変わりうる答え」がすなわち「暫定的な仮の答え」で、所々でそれを手にしながら、問いと答えの両方を書きかえていくことが、議論する目的であり、考えることだと私は思うのです。

オープン・エンドな問題 と クローズド・エンドな問題

 英語に「オープン・エンド」と「クローズド・エンド」という言葉があります。「オープン・エンド」は直訳すると「終わりが開かれている」ということですから、つまり「終わりが決められていない」という意味です。それは「終わりが無い」ということでもありますし、「いつ終わってもよい」ということでもあります。もう一方の「クローズド・エンド」は直訳すると「終わりが閉じている」ということですから、つまり「終わりが決まっている」という意味になります。
 使い方は、例えばアンケートでいうと「YesかNoか」で答えられるような質問が closed ended question で、「お気づきの点をご自由にお書きください」のような質問が open ended question です。あるいは投資信託でいうと、満期まで換金(解約)できないようなものがクローズド・エンド型で、いつでも換金(売却)できるようなものがオープン・エンド型です。そしてもう1つ、「答えのある問題」がクローズド・エンドな問題で、「答えの無い問題」がオープン・エンドな問題です。そのように使います。
 「答の無い問題」とは実は「問いも答も変わりうる問題」で、なぜそうなるかというと、どんどん「取り込む」からです。そこで出てくるのは「暫定的な仮の答え」であって、それも状況が変わればいつでも変わります。場合によっては、いつまでも続きます。「永遠のテーマ」という言葉もありますが、オープン・エンド(終わりが開かれている)というのはそういうことです。
 一方の「答えのある問題」は即答するのが基本です。まず初めに「絶対に正しい唯一の答え」があって、そこに答えが行き着くように問題が作られているからです。クローズド・エンド(終わりが決まっている)というのはそういうことです。ですから、答えのある問題から見れば、答えの無い問題はまどろっこしく見えるでしょう。

 そのまどろっこしさに耐えきれなくなって起きる現象が炎上です。その議論を「答のある問題」と受け取れば、答えはすでに「ある」のですから、時間をかけてじっくり検討する必要などないのです。それをあぁだこぅだ言うのは、時間の無駄なのです。ましてや問いが変わるなんてことがあってはならないのです。それを「答えのある問題」と受け取れば、そういうことになります。
 そして、議論は「シロクロはっきりさせよう」という方向に進んでいきます(議論した成果を基にして「判断=意思決定」することはありますが、それと「シロクロはっきりさせる=真偽判定」ことは全く別物です)。でも「自分の論がシロ(真)だ」と示せるはずがありませんから、そうなると人は「相手の論はクロ(偽)だ」と言おうとします。こうして、自分の論を支える根拠を挙げる(広い視野で見なければならないから、難しい)ことよりも、相手の論を否定する(視野を狭めればよいので、簡単です)ことに精を出すようになります。
 そうこうするうちに、日本人お得意の婉曲表現が始まります。「はぁ?お前、いったい何を言ってるんだ?」と。「おぃおぃ、いい加減にせぇよ」と。万葉の時代から続く論点ズラしのDNA、説明せずにフィーリングを伝えようとするDNAが動き始めるわけです。
 同時に、議論は勝ち負けの様相を呈してきます。人の感情の中で、真偽は、勝ち負けに簡単に結びつくようです。そして、相手は間違っているのだから、それを言う自分は正しいのだから、それを認めない相手に認めさせようとするわけです(本当は相手の納得を得られるような説明をするべきで、それが得られなかったらそこで終わりなんです)。そうこうするうちに、婉曲表現の一形態である揶揄表現が入り混じります。そしてだんだん言葉使いが荒くなってきます。
 なにか大きな勘違いをしていると思いませんか?
 ネット時代になって、文字だけで情報交換する機会が増えて、そうなるとこれまで以上にきちんと説明しなければならないはずなのに、説明しないという習性は相変わらずで、でも文字だけで表現しなければならないという制約から、語調・語感に頼る傾向がますます強くなっている、そのように私は感じています。
 でも、根本的な勘違いはそこじゃありません。「正しい論理」と「議論の論理」の区別がついていないことがそもそもの勘違いなのではないでしょうか。

2020年1月23日木曜日

新しいジャンケンを考案せよ(早大スポ科入試・小論文より)

(早大スポーツ科学部2018年入試・小論文)

 じゃんけんの選択肢「グー」「チョキ」「パー」に、「キュー」という選択肢も加えた新しいゲームを考案しなさい。解答は、新ゲームの目的およびルールを説明するとともに、その新ゲームの魅力あるいは難点も含めて、601字以上1000字以内で論じなさい。

2020年1月9日木曜日

他人が握ったおにぎりを食べない問題(横浜市立大入試・小論文より)

(横浜市立大学医学部2019入試・小論文より)

 高校の授業の一環として稲刈りの体験作業があり、あなたはそれに同伴した指導者です。農家の高齢の御夫婦が、お礼にとおにぎりを握って持ってきてくれました。しかし多くの生徒は知らない人の握ったおにぎりは食べられないと、たくさん残してしまいました。これについてあなたはどう考え、生徒や農家の方とどのように話しますか。1,000字以内にまとめなさい。

2020年1月7日火曜日

「孟子の性善説」と「荀子の性悪説」を比較せよ

「孟子の性善説」と「荀子の性悪説」について Wikipedia の説明を読んで、両者を比較(共通点と相違点を見出す)して、100字前後でまとめよ。



 孟子(BC372〜289)も荀子(BC313?〜238)も、どちらも孔子(BC551〜479)の流れを汲む儒家の思想家である。「性善説・性悪説」と言われると真逆のように聞こえるが、元々同じ系列にあるものだから、意外とそうでもないのである。
  孟子・ 荀子の言葉をすべて解読しようとするとキリがないが、Wikipedia の記載を元にざっくり比較してみよう(高校倫理の教科書を使っても良いだろう)。比較とは、相違点を見出すこと、そして共通点を見出すこと。そうすることで、儒家の思想がだいぶ分かる。

  • 性善説では人の本性を善と捉え、性悪説では人の本性を悪と捉える。前者では善なる本性を引き出すために、後者では悪なる本性を封じるために、両者とも教育の必要性を説いているという点において共通している。 (97字)

  • 「人の本性は善だからそれを引き出すために教育が必要だ」と言うのが「孟子の性善説」で、「人の本性は悪だからそれを封じるために教育が必要だ」と言うのが「荀子の性悪説」である。教育の必要性を説いている点で両者は一致している。(109字)

2019年8月31日土曜日

そもそも議論とは何なのか?

○ 言論と批判と反論
┌ ◇ 言論とは、
│     ある主張(意見)とその根拠(理由)がセットで掲示されたもの
│ ◇ 批判とは、
│     言論の根拠の妥当性をチェックすること
│ ◇ 反論とは、
└     相手の根拠の不備を指摘すること

○ 意見 ← 理由、説得 ← 理由 
┌ ◇ 理由が言えて、はじめて自分の「意見」
│     理由がなかったら、単なる「感想」あるいは「思いつき」
│ ◇ 説得(納得)材料は、理由だけ
│     他の方法は、すべて反則技(泣き・脅し・・・)
│ ◇ 意見(主張)は、主観であってかまわない
└     でも、理由(根拠)には、客観性が無きゃいけない

○ 反論と異論と言いがかり
┌ 「Aである」という論に対して、
│ ◇ その根拠を批判して「Aでない」(…とは限らない)と言うなら反論
│ ◇ 別の根拠を持ち出して「Aでない」と言うのは異論
│ ◇ 批判もせず、根拠も示さずに「Aでない」と言うのは言いがかり
│
└ 反論であれば議論になるが、異論であれば平行線。言いがかりは消耗です。

○ 議論の目的
┌ ◇ 自分(他人)の考えをくっきりさせる
│     視点(立場)が異なれば、見え方(景色)が異なる
│ ◇ 自分と相手の考え方の違いをくっきりさせる
│     どこが同じで、どこが違うのか?
│ ◇ いろんな見方・とらえ方・考え方を取り込む
└     「どっちが正しいか?」を争う必要はない

○ まとめ
┌ ◇ 意見(主張)には必ず理由(根拠)を添える
│     それが無ければ、単なる感想・思いつき
│ ◇ 反論のターゲットは、相手が挙げた根拠(理由)
│     相手の主張(意見)に直接向けてはならない
│ ◇ 議論の目的は、ぼんやり→くっきり
└     自分(相手)の考え方、お互いの考え方の違い

☆ なぜエグゼルは有害か

(2019年1月)

 なぜエグゼルは有害か。

 まず、どんなことであれ、いろんな見方が可能だ。視点の当て方で見え方が変わる。ある一面から見ることで、見えるものがある。論の立て方で結論も変わる。もちろん違う見方もできる。論を立てるときの条件を変えれば、異なる結論に至ることもある。
 ブログの記事は、ある人の特定の見方を表したものだ。そこにエグゼルは異なる見方を持ち込む。けれども、それは元の記事とは全く別の論なので、かみ合うとは限らない。別の論は、別の場所で立てるべきだ。そう、エグゼルは自分のブログで自分の論を立てるべきなのだ。
 ところでエグゼルが他の人のブログに持ち込むものは、まともに論として成り立っているものではない。彼の主張だけを、ろくに説明もせず、罵声とともに持ち込む。だから彼は有害なのだ。

 次に、新しい考え方は、新しいものの見方・新しい論の立て方から生まれる。こうして人の考え方・感性が深化・進化する。そしてそれは必然的に一般的な考え方・常識とはいくらか異なるものになる。
 エグゼルはこうした記事を見つけると、ただただ否定する。「一般的なものと異なる。だから間違いだ」と彼は言う。「一般的なものと異なる」ことは記事を書いた当人には自明のことで、だから書く価値があるのだが、それだけを根拠に彼は記事を否定するのだ。
 だからエグゼルがコメントしてきても、かみ合うはずがない。彼に彼の考えがあるなら彼のブログで展開すれば良いのだが、彼は他人の記事を否定するためだけにコメントするのだ。常識だけを根拠に、悪態をつきながら罵声とともに。こうして彼は新しい考えを潰そうとする。だから彼は有害なのだ。

 それでも多くのブロガーは彼に対して、自説の補足説明をしたり、彼の言動をたしなめたりと対応する。ところが、エグゼルはいつまでもコメントを繰り返す。2度3度までなら一応の対応をしても、それを何十回・何百回も続けることはできない。そして多くの場合、彼のコメントを削除する。彼のコメントが迷惑だからだ。有害無益だからだ。
 やがて彼のコメントは脅迫へと変わっていく。しばしば彼は内緒コメントを使う。ここに至って彼の行為は、迷惑行為から犯罪行為と見なせるものになる。

 この記事にエグゼルがコメントしてくるとしたら、次のような展開になるだろう。
・「エグゼルは有益だ」という主張  ← それが言いたいなら、エグゼルのブログでやれ。
・「この記事は間違いだ」という主張 ← 記事をしっかり読め。十分説明してある。
・ 同じ主張の繰り返し       ← 削除(冷静な反応をしてきたら、しばらくは応対する)
・ 脅迫              ← 削除(場合によっては証拠保全する)

 エグゼルくん、ネット社会から去るなら今がチャンスだよ。多くの人がそれを期待しているんだ。このチャンスを逃さないでね。


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バカをあぶりだす方法

(2019年1月)

放っておけ。そのうち勝手にボロを出す。


・・・昨日の記事 にエグゼル氏が寄こした内緒コメント。しっかりボロを出した。


 「殺した」がどんな意味であれ、これだけで立派な犯罪だ。
 また彼は続く内緒コメントでこう書いた。


 具体的な手口を彼は白状した。
 そして何度も彼が書いているように、彼の希望は「昨日の記事 の閉鎖」。お断りだ。

プロポーズとストーカーの境い

(2019年1月)

3回目まではプロポーズと言えても、4回目からはストーカーと見なされる。

・・・エグゼルくん、君はすでに犯罪者なのだよ。そういう認識でいてくれ。


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