2020年12月29日火曜日

思考をストップさせる3つの要因

◇ 他人の考えを尊重する
 けれど多くの場合、それは「他人との交流を避ける」ことにしかならない。お互いの考えが深まることもない。他人の「考え」とはいっても、実体は単なる「好き嫌い」や「思いつき」である場合がほとんどなんだもの。

◇ 論理的に語る
 けれどそれができるのは、最後の最後だ。いや、そんなときは永久にやってこないのかもしれない。それができるまで何も発言もしないとしたら、いつまでも何もできない。何も考えることができない。

◇ 正しいことを書く
「客観的で、例外がなく、誰がみても正しいもの」を書こうとする人がいる。だけどそれだったら、書く意味がない。そして読む人にとっても、読む意味がない。正しいこと=当たり前のこと、なんだもの。

・・・と3つばかり並べてみた。
 一見どれも立派なことのように聞こえるが、これらは実は「思考をストップさせる要因」に他ならない。せっかく思考の芽が出てきているのに、それを摘み取ってしまっているのだ。

 では、どうすればよいか。逆のことをすればよいのである。
     ◇ 他人の考えに、自分の考えをぶつける
     ◇ あいまいなまま考え、しゃべり、表現する
     ◇ 視点を定めて、自分の見方を書く

 こんなことを書いているうちに「思考をストップさせる要因」の4つ目も見えてきた。

◇ 外に情報を求める
 自分の外にある情報は、自分というフィルターを通して取り込まれ、自分の経験の1つとして蓄積されます。そして他の経験と融合して、やがて自分のものになります。
 この方法は、自分の思索のバックボーンを養うにはとても有効な方法です。けれども目の前の具体的な問題解決には、まったく不向きなのです。なぜかというと、
   1.個別の問題にジャストフィットする情報に巡り会える可能性が小さい。
   2.巡り合えたとしても、自分が理解し会得するまでに時間がかかる。
   3.そもそも考えている最中には、
       自分が何を考えているのか、何を求めているのかがクリアでない。
からです。では、どうすればいいのでしょうか。

→ ネタは自分の中にある
 自分の内なる情報に目を向けることの方が、外の情報を求めるよりもはるかに効果的です。なぜかというと、
   1.自分の中には、
     これまで生きてきた中で経験し学習し考えたことが無限に蓄積されている。
   2.それらが自分の中で融合し、熟成して、飛び出すチャンスを待ち構えている。
   3.それらが自分に対して働きかけている。だから、自分はいま考えている。
からです。だから、外の情報を探し求めるより、目を閉じて自分の中を見つめた方がいいんです、きっと。
 自分こそがネタの宝庫。最大の情報源は、自分なんです。すぐに外に情報を求めるのは、自分を信用してないってこと。これもまた思考の芽を摘み取ってるだけなんだ。・・・もったいないったらありゃしない。

 続いて、話をストップさせるのに効果的な、3つのセリフを紹介します。

◇ まっ、人それぞれですから
 このセリフは、あらゆるものを優しく包み込んでくれます。 要するに「何でもアリ」ということですから。何気ないセリフのように見えますが、それまでの話がスムーズにストップします。いかなる分析も、いかなる主張も、吹っ飛んでしまうくらい威力があります。

◇ それって、差別発言ですよ
 これは、相手の口の中に饅頭を丸ごと押し込むのと同程度の効果があります。相手は少なくとも3分間は、何もしゃべれないはずです。人がタブー視していることに、報道機関は触れない。それと、同じ原理です。

◇ 以上、わたしの感想です
 このセリフは、自分の発言に突っ込みを入れて欲しくないときに使います。相手が冷静なら、「あぁそうですか」しか言えなくなります。それでも突っ込まれたら、1番上に書いたセリフを使いましょう。「まっ、人それぞれですから」と。

2020年12月28日月曜日

☆ ブログにはバカなことを書きたい

 今から14年前、年末年始の4日間にわたって私がSNSに上げた文章を、そのまま載せます。タイトルも当時のままです。今にして思えば、私のSNSライフのスタートラインはここにあると言えるでしょう。
 読み返して思うのは、14年経っても何も変わっていないということ。多少はまとめるのが上手になったのでしょうけれど、問題意識は変わっていない。今だに答えが見えていないとも言えるし、当時すでに答えが見えていたとも言える。

  ◇ ブログにはバカなことを書きたい    (2006年12月30日) 
  ◇ 続・ブログにはバカなことを書きたい   (2007年1月1日) 
  ◇ ブログにはバカなことを書きたい:第3弾 (2007年1月2日) 
  ◇ ブログにはバカなことを書きたい:第4弾 (2007年1月3日) 

 そして「タイトルのその気持ちを持ち続けよう」という心意気に改めて同意したい。そう、最近わりとまともなことばっかり書いていることを大いに反省しなきゃいけない。

ブログにはバカなことを書きたい

(2006年12月30日)

 「バカなこと」というのは語弊がありますが、ブログで「チャレンジしたい」というボクの思いを書きました。知ってることだけでなく、「考えてる最中の、まだ形になっていないもの」を書きたいということです。そうすれば、イヤでも「バカなこと」になるはずです。
 完全なパブリック環境では「バカなこと」を書けません(ホントのバカになってしまいます)。完全なプライベート環境では「形にしよう」というモチベーションが働きません。
 ブログは、プライベートとパブリックの中間にあります。そのビミョーなポジションが、チャレンジするのに絶妙だと思うわけです。「人目に晒す」という多少のプレッシャーが効果的なんですね。
 疑いようのない事実ばかり書いてもつまらない。個人的な感想ばかりをつづってもつまらない。自分にとっての問題を「考えるためにブログを書く」っていうのも、アリだと思います。
 中途半端でもご勘弁、意味不明でもご愛嬌。それに共感する人が現れるかもしれませんし、コメントやトラックバックからヒントを得られるかもしれません。(ブログはそんな可能性を持っています)

 ボクはこれからも「バカなこと」を書き続けます!(もっとがんばんなきゃ)

続・ブログにはバカなことを書きたい

(2007年1月1日)

 一昨日の続きです。正月三が日は、バカなことを書きたいと思っています。後で読んで恥ずかしくなるようなものを書くことが、目標です。

 さて、今日のテーマは「バカなことを書くための条件」です。バカなことが書けるためには、いくつかの条件があると思うんです。それについて、考えます。
 なぜそんなことを考えるかというと、ものを考えるためには必ずそのステップを踏むと考えるからです。何が問題なのかが自分でもわからないような問題に取り組むことを、ここでは想定しています。答えはもちろん見えないし、答えがあるのかどうかもわからない。問題そのものも不明瞭だから、人に質問することもできない。その問題について発言すれば、イヤでも「バカなこと」になるに違いありません。
 問いが明確であれば、スマートに考えることもできるでしょう。しかし明確な問いにばかり答えていては、問いを立てる力が弱くなっていくのではないかと思うのです。
 ついつい考えてしまう問題を抱えている人はラッキーだと思います。それを書けばよいのですから。
 でもね、人間ってきっかけも何もないところで考えたりはしないと思うんですよ。何かしらつかんでるから、でもよく見えないから、考えちゃうんだと思うんです。
 つまり、疑問=ヒント だと思うんですね。疑問を持った時点で、すでに解答までの道なかばにある、と。

今日の結論。 バカなことを書くための条件は、

  《条件1》疑問を感じる能力を持ち続けている。
       それを失わないためにも、時々やった方がいいんじゃないかな。
  《条件2》その疑問が自分にとっての「チャンス」であることを知っている。
       それ(疑問や悩み)をネガティブにみる発想じゃダメですね。
  《条件3》一定期間それを考え続けるタフさ・ラフさ・ズウズウしさを持っている。
       でも、それが楽しいといえば楽しいんです。

 さて、年始早々のバカ発言、いかがだったでしょうか?
 まったく説得力ありませんね。とても人に読ませられるようなものじゃありません。後で読んだときに恥ずかしいと思うのでしょうか。 だとすれば・・・当初の狙い通りと言えるのかな?

ブログにはバカなことを書きたい:第3弾

(2007年1月2日)

 正月三が日は、バカなことを書こうと心に決めました。
 今日のテーマは「事実より、ものの見方」です。あるいは「事実より、仮説」と言いかえることもできます。「前者より後者の方が、価値がある」ということを考えてみようと思います。
 意味不明の文章になることは必定ですが、もとより覚悟の上です。現段階では「バカな発言」でも、「そのうち形になるだろう」という期待があるから、書くわけです。

 「事実」とは「=誰が見ても正しいもの=客観」と言えるでしょう。「見方=仮説」はさらに言い換えると「=解釈=考え方=主観」となりそうです。また「事実は1つ、ものの見方はたくさんある」という比較もできるでしょう。
・・・と、ここまで書いてきて、ボクの問題意識からズレてきているように思いました。
・・・両者を比較することがボクの課題ではないんですね。

 実はこの問題、昨日からもう丸1日考えています。その間に「事実と見方」を比較しながら、文章を書いたり消したりしてました。そして気がついたんです。
 なぁんだ、「そんなふうに考えようよ」で十分なんだ、と。

 考えてみると、ボクのテーマ「事実より、見方」そのものが、ものの見方であり、仮説です。こんなものが事実であるなんてことは、ありえません。
 ところで、2者を比較して1者の優位性を示そうとすることは、事実を求める姿勢です。それが悪いとは言いませんが、「事実より、見方を」という自分の主張にはそぐわないわけです。
 結局ボクが言いたかったのは、
  ・ きちんと証明できるまで発言しなかったら、何も言えないよ。
  ・ 仮説あるいは考え方として、発言すればいいじゃないか。
ということだったんでしょう。

「そんなの当たり前だ!」だって?
「そんなこと1日中考えてるなんて、ホンモノのバカだ!」ですって?
 いや、そうでもないんです。情報科の授業で生徒に「自己表現」させているボクにとっては、これは切実な問題だったんです。きっと。実際に授業をやってみると、こんなふうに思ってる生徒がいるように感じるんです。
  ・こんなこと(自己表現)やって、ナンの意味があるんだ。
  ・そんなものどーでもいいから、情報科の授業ではコンピュータ使わせろ。

 あるいはこんなふうに言われるかもしれませんね。「お前は自分をごまかしてるぞ」、「自分の問題から逃げてるんじゃないか」と。
 いや、そうでもないんです。
 事実の価値基準が「正しいか否か」だとすると、見方の価値基準は「妥当か否か」です。だから、ボクの考えが正しいか否かは関係ないんです。ボクの考えが「妥当だ」と人(生徒)が思ってくれれば、それでいいんです。

 さて、今日のバカ発言はいかがだったでしょうか?
 バカなことを書くつもりが、あんがい体よくまとまってしまったような気もするし、答えになっていないような気もするし。。。

ブログにはバカなことを書きたい:第4弾

 (2007年1月3日)

 バカ発言、とりあえず最終回の予定です。
 過去2回はまずテーマを立ててそれから考えましたが、今日は違う順序でいこうと思います。この手の問題を考える場合、問いが明確に立っているということはありえないと思うからです。「問いと思索と答えは一体」もしくは「問いは答えの一部」であるということなんでしょう。
 そして実際に、いま現在ボクはその 問い=テーマ を立てられない でいるのです。バカ発言をするのに、ちょうどいいあんばいですね。でも最後には「問い=テーマ」と「答え」がある程度見えるようになっていることを期待しながら、始めます。
 この3日間、「バカなことを書こう」と決めて実行してきましたが、けっこうキツイんですね。これってナンなんだろうってことを書きたいわけです。同時に「日常のことや感想をダラダラ書くのはラクだよなぁ」と思ってしまいました。

 ボクがトライしている問題がどういうジャンルに属するのか、から考えましょう。
 これって、思春期にたいていの人が経験するのと同じジャンルなのかもしれません。あるいは、実はみんないつも似たようなことを考えているのかもしれません。
 でも、ボクにとっては「久しぶりだなぁ」って感じです。このジャンルにネーミングするとしたら、何がいいんでしょうか?
 ボクは「このジャンルのことをやることに、意味があるのかないのか」を考えようとしているのでしょうか。
 いや、ちょっと違いますね。「意味がない」と考えるなら、最初からこんなこと書くはずがありません。それを言うなら、「意味があると言おうとしている」ということになるでしょう。
 でも、世の中を見ると、みんながこんなことに取り組んでいるようには見えません。実際にはしているのでしょうけれど、はっきりと目に見える形にはなっていませんね。
 テレビではバラエティーばかりやってて、みんな楽しいことばかり考えているように見えます。生徒の発言にもブログの記事にも「おもしろいことを、気の効いたことを」という熱意ばかりを感じます。
 かたや、いまボクが考えているジャンルのことは、非常にマイナーな存在になっているという気がします。・・・ボクは、それの復権を考えているのでしょうか。
 先ほどから「ジャンル」とか「それ」と書いてますが、やっぱりうまくネーミングしたいですね。そうじゃないと、わかりやすい文章にならないし、まとまりませんものね。
 ・・・ここで、気がつきました。うまくネーミングできれば、問いと答えが引き出せるかもしれない、と。。。

 中途半端ですが、今日はここで終わります。3日間ブツブツ考えてきてよかったと、いま思っています。ときどきこんなのやらないと錆びれるよね、とも。そして、こんなブログの使い方もアリだよね、って。

2020年12月25日金曜日

☆ お金という臆病な生き物

 お金に振り回されないために、お金と上手に付き合うために、ときにはお金についてじっくり考えてみましょう。

  ◇ お金という臆病な生き物 
  ◇ 「格」と「差」の間に 
  ◇ 国内総生産のカラクリ 

 お金って案外バカバカしいものなのかもしれませんよ。


「格」と「差」の間に

 「差」とは「収入の差」のことだ。あるいは「貧富の差」のことだ。「格差」という言葉を使う人の間で、そこにブレは無かろう。
 では、「格」とは何者か? 「差」といえば十分であるかもしれないのに、なぜ「格」をつけるのか? そこにどんな意味を込めているのか?

 探ってみよう。「格」という文字は「性格、人格、品格、風格」のように使われる。しかし、いずれの使い方においても、「お金」という意味合いはどこにも無い。さて、いかなる理屈で「格」と「差」がつながるのか?
 「教育格差」という言葉もある。その意味は単に「学力の差」ということではない。むしろ焦点は「教育にかけられるお金の差」にある。「貧富の差」が「教育の差」を生んでいるという主張だから、ここでも「格差」はお金と結びついていると考えざるを得ない。
 「格差」という言葉が出てくる発端は、いつもお金の話なのだ。それでいてこの言葉は、人の価値みたいなものを中途半端に匂わせる。説明不足なのだ。 話が飛び過ぎなのだ。だから人を戸惑わせるばかりで、何のヒントも与えない。
 こう言いたいのだろうか? 「収入の差」が「性格、人格、品格、風格」に影響して「人間の格付け」を決める、と。厳しい物言いであるが、「格差」という言葉にそういうニュアンスを感じないわけではない。そして、そういう面もあるのかもしれないな、とも思う。

 でも、それにしても「格」と「差」にはずいぶん開きがある。「収入の差」がいかにして「格の差」になるというのか? 「お金の差」がいかにして「人の格」に作用するのか? その間をもうちょっと埋めてみた方が、事態がよく見えるんじゃなかろうか?


2020年12月12日土曜日

コロナ健康観察票の今

文部科学省発行の「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル」

「健康観察表」は、児童生徒等の朝晩の体温、体調、同居家族の状況、保護者のサイン等を記入し、登校時に持参します。(P.22)

(P.23)

 健康観察票でチェックしているのは「測ったか?」ではない。「発熱しているか?」でもない。健康観察票でチェックしているのは「書いたか? サイン(または印)したか? 持ってきたか?」である。
 だから多くの生徒たちは「書いて、サイン(または印)して、持ってくる」もしくは「カバンもしくは学校の机に入れたままの紙に書いて、サイン(または印)して」チェックを受ける。それさえしていれば問題は起きない。いずれかのステップを取りこぼすと面倒なことになる。
 「測ったか? 発熱しているか?」がチェック項目に入ることは、論理的にありえない。なぜならそれらを学校でチェックするとしたら、そもそも健康観察票に意味が無いことになるからだ。こうして、チェックする側にとっても、チェックを受ける側にとっても「測ったか? 発熱しているか?」は「どうでもよいこと」になるわけである。

2020年12月6日日曜日

もし自分が生まれてこなかったならばどうなっていたか?

 以前の記事「やりたくないこと、なりたくないもの探し」にこう書いた。

「何をやりたいか、何になりたいか」を考えるより、むしろ「何をやりたくないか、何になりたくないか」を考えた方が良いんじゃないだろうか。

 今日も似たようなことを考えた。

「死んだら、どうなるか?」を考える際に、同時に「生まれてこなかったら、どうなっていたんだろう?」を考えると、いろいろ見えてくることがあるんじゃないだろうか。

と。考察を続けよう。
 もし自分が生まれてこなかったならば、自分にとって世界は無い。何も無い。きっとそうに違いない。
 自分が生まれてこなくても、なにがしかのものはあるのかもしれない。けれども、自分が生まれてこなかったのならば、それは自分にはあずかり知らぬこと。自分にとっては、何も無いということだ。今ここにある世界は自分が生まれたから「ある」のであって、もし自分が生まれてこなかったならば、自分にとってはこんな世界は「無い」。きっとそういうことなんだろう。
 その考えに立って「自分が死んだらどうなるか?」と考えると、要するに「生まれてこなかった場合と同じ状況になる」んじゃないか。すなわち、自分にとっては「何も無い」状態になるということ。
 他の人にとっては世界は続くのかもしれない。けれども、それは自分にはあずかり知らぬこと。生まれてこなかった人にとって「無い」のと同様に、死んだ後には何も「無い」んじゃないだろうか。
 それでいいじゃん・・・と考えてみた。

子どもに聞かれたらどう答えるか?

 SNS上の友人からの問いかけ、「子どもに聞かれたらどう答えるか?
  • 「うまくいかないことがあるときどうしたらいいの?」
  • 「おかしいな、と思うことがあるときどうしたらいいの?」
  • 「みんながわかってくれない、と思ったときどうしたらいいの?」



 それに対して応えたこと。ここに記録しておく。

○ 「うまくいかないことがあるときどうしたらいいの?
→ 君が難しいことにチャレンジしてるってことだろうな。簡単にできることだけやっていれば「うまくいく」だろうけれど、それじゃつまらないでしょ。だから、うまくいかない方がいいんだよ。

○ 「おかしいな、と思うことがあるときどうしたらいいの?
→ 君は何かに気づいたんだね。はっきり言葉にならなくても、直感的にわかっちゃったんだよ。その感覚を大事にしてほしいな。忘れずにいれば、その直感が正しかったってことがやがてきっとわかる。

○ 「みんながわかってくれない、と思ったときどうしたらいいの?
→ 凡人には理解できないくらいの天才ってことなんだろうな。だからわかってもらおうなんて考えない方がいい。君が凡人のレベルに合わせたら、君も凡人になっちゃうぞ。君は天才でいた方がいい。

2020年12月5日土曜日

国家は何のためにあるのか?

◇ 国家は何のためにあるのか?
 経済のグローバル化が進んで人と物の移動が盛んになれば、賃金も物価も世界で同じ水準に近づいていく。それがグローバル経済の1つの帰結である。その意味では世界は1つになっていくということだが、一方で国家の枠組みがなくなる気配は今のところ無い。
 ところで、国家が何のためにあるかというと「税を取り立てるため」にあるのである。税金を納めたくないなら独立すればいいのだが、それをやろうとするとどうなるかというと、国家はそれを阻止するために軍事攻撃を仕掛けてくる。つまり「圧倒的な軍事力を背景にして、強制的に税を取り立てる仕組み」、それが国家の本質である。
 もしあなたが「軍事力とは外国と戦うためのもの」と考えているとしたら大きな勘違いだ。それ以前に「国民を従えるために、国民が逆らわないようにするため」に軍事力はあるのである。現に世界の軍隊の多くは内戦もしくは国内での騒動を鎮圧するために投入されている。アフリカでも中東でもロシアでも中国でも、多くの場合、銃口は自国民に向けられる。

◇ それでもあなたは日本で働きますか?
 グローバル経済の帰結として出てくるのは、世界の賃金水準が等しくなっていくこと。つまり、これからの時代、職種が同じなら、おそらくどこで働いても収入はそんなに変わらないだろうということだ。あなたは日本で働いてもいいし、外国で働いてもいい。あなたは自由に選べる。選ぶのは、あなただ。
 一方で、国家の枠組みは当分のあいだ残るだろう。そして国家にはそれぞれの事情がある。日本の特殊事情は2つ。少子高齢化と国債残高だ。そしてそうなると、税が違ってくるのである(上に書いたように、そのために国家があるのだから)。日本で働いた場合は、年寄りの世話と借金返済のために、稼いだうちのかなりを部分を取り上げられそうな勢いである。
 さて、あなたは日本で働きますか? それとも外国で働きますか?

コロナの健康観察票にひっかかる人とは?

 コロナの健康観察票にひっかかる人とはどんな人か? 「感染していて、かつ症状があって、真面目で正直で、しかもバカ」・・・でも、そんな人いないから。つまり、健康観察票なんてやるだけ無駄だと思うな。


 来週から期末試験で、今日が2学期の最後の授業。高校3年生は3学期に授業がないので、今日の4時間目が高校生活最後の授業だった。
 高校3年のあるクラスで、たまたま僕がその最後の授業の担当だった。今更やることもないので自習にして、暇だから僕が黒板に下のように書いた。
 生徒たちは共感してくれた。その後で、みんなで記念写真を撮ろうということになって、黒板の文字もバッチリ入れた。

 こんなことを毎日毎日オレたちはやっている。健康観察票の記入・押印とチェックだ。揃いも揃って、みんな大バカじゃないか!?
 健康観察票なんて自己申告なんだから、紙に書いてチェックを受ける必然性は無いんだよ。「熱があったら来るな」、これだけ言うのと何も変わらないのに。


※ ちなみに僕も毎朝、出勤簿に数字を書いている。バカバカしいと思いながら、もうやめようよと思いながら書いている。その数字が体温かどうか、そんなこと知ったこっちゃぁない。検温したかどうかは、そんなもん対象外なんだよ。

2020年12月3日木曜日

「税」の成り立ち

 のぎへん(禾)は穀物を表し(稲、穂、稔)、つくり(兌)は薄くはぎ取るさまを表す(脱、説、鋭)。
 つまり、汗水ながして手に入れたものを、べりっ、べりべりっと1枚ずつはぎ取るのが「税」である。

・・・ と同僚の政経の教員が言ってた。いたそぅ 。。。

同一労働同一賃金が起きる場所

 先進国と発展途上国の給与水準と物価水準はこれまで大きく開いていたが、これからはだんだん近づいていくだろう。それがグローバル経済の一つの帰結である。人と物が国境を越えて自由に行き来するこれからの世界では、これまでの先進国で給与水準が下がり、物価水準も下がる(デフレ)のは必然である。 別の言い方をしよう。日本の高い人件費を避けて、工場が人件費の安い発展途上国に移転する動きがあるが、それを阻止するのは簡単だ。日本人の賃金を下げればいいのである。そうすれば、工場は国内にとどまる。
 いや、無理に下げなくても、工場が移転した先では人件費が上がり、工場が去った日本では人件費が下がって、その差はだんだん小さくなっていくだろう。需要と供給の関係を考えれば、そういうことになる。

 「同一労働同一賃金」という言葉がある。 最近の使われ方は、こうだ。「正社員と派遣社員が同じ仕事をしているのに賃金が違うのはおかしい。派遣社員の給与を正社員並みに引き上げろ」と。この言い方の前半部分は正しいが、後半部分は間違っている。
 逆だ。派遣社員の急増は、日本人の人件費を下げる方向への力がすでに働いていることの現れである。でも、まだ終わっていない。労働者の一部はすでに賃金が下がり始めているが、これからは残りの労働者の賃金が下がるだろうからである。むしろ、今後は「正社員の給料が派遣社員並みに下がる」ことを想定するべきだろう。そういう形で、同一労働同一賃金になっていくのだろう。
 ブルーワーカー(工場労働者)だけではない。ホワイトワーカー(オフィス労働者)も間もなくそうなるだろう。日本のホワイトワーカーが外国のホワイトワーカーに比べて生産性が特に高いわけではないだろう。であれば、日本のホワイトワーカーだけが高い賃金をこれからも得つづける道理などあるはずがない。
 同一労働同一賃金は世界規模で起きるのである。その動きは、日本人の給与水準がミャンマー人の給与水準と同じ程度になるまで続くだろう。ちなみに、物価水準も下がるから、必ずしも日本人が貧しくなるとは限らない。

2020年12月2日水曜日

コロナ対策のストレスから子供たちを守れ

 ある学校の先生が言っていた。「コロナ・ウィルス感染から子供たちを守る」と。しかし、私は思う。子供たちにとっての現実的なリスクは、ウィルス感染そのものよりも、ウィルス対策によるストレスの方だ。だから、いま言うべきは「コロナ対策のストレスから子供たちを守る」ことじゃないか、と。
 子供たちがコロナ・ウィルスに感染しても多くの場合無症状で、もしくはせいぜい軽症だ。重症化する可能性は小さい。そのリスクはゼロではないにせよ、インフルエンザなど他の病気や怪我に比べて決して大きいものではない。
 それに比べれば、コロナ対策によるストレスは確実に子供たちに及んでいる。そしてそのことに因るであろう弊害がすでにいろんなところに出てきている。

高齢者をウィルス感染から守るために、子供たちにも協力してほしい」ということなら理解できる。そしてその場合は「ほどほどに」ということになるだろう。それに対して「コロナ・ウィルス感染から子供たちを守る」という発想はしばしば「徹底的な」対策になりがちで、現にあちこちの学校でそうなっている。
 もうかれこれ1年近く経っているのだよ。もうそろそろ「コロナ対策のストレスから子供たちを守る」方向に舵を切った方が良いんじゃなかろうか。いや一刻も早くそうするべきだと私は思うのだ。

 そこで私は考えた。通学の電車やバスの中でマスクして声も発せず黙って乗っているのだから、学校に着いた瞬間から「コロナ対策フリー」にしてしまおう。校門を入ったらすぐにマスクを外して良いとする。大声で叫ぶもよし、じゃれ合うもよし、ツバをかけ合うバカがいても「勝手にやってろ」と放置する。
 そして下校時の電車・バスの中では再びマスクをして静かに乗る。「高齢者をウィルス感染から守るため」だ。そのための協力なら惜しまない。けれどもその代わりに、学校の中では思う存分自由に、コロナのことをすっかり忘れて過ごす。これが「コロナ対策フリーな学校」だ。
 絶妙なバランスだと思うな。それくらいで行こうよ。