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2021年3月26日金曜日

サングラスが怖いのが東洋人、マスクが怖いのが西洋人

東洋人は相手の目元から表情を感じとる。西洋人は相手の口元から表情を感じとる。
だから東洋人は相手の目が見えないと、相手が何を考えているのかわからない。西洋人は相手の口が見えないと、相手が何を考えているのかわからない。
だから東洋人はサングラスしている人が怖い。西洋人はマスクしている人が怖い。

2021年1月27日水曜日

絵本「おさる日記」を読む

(2009年6月)
絵本「おさる日記」(文 : 和田誠 、絵 : 村上康成 、偕成社)を娘に読んでやりました。日記の書き手はしんちゃんで、しんちゃんのおとうさんは船乗りです。抜粋して引用します。

×月×日
おとうさんはおみやげをぼくにくれた。おさるをくれた。まだちいさいおさるです。

×月×日
もんきちはまいにちバナナをたべていますが、きょうはじぶんでバナナをむいてたべた。
だんだんあたまがよくなるのでたのしみです。

×月×日
もんきちの毛がうすくなるからおかあさんにきいたら、夏だからはえかわるのでしょうとおかあさんがいった。

×月×日
おさるは人間になったのだから、もんきちも人間にだんだんなるのかなとおもった。
そういえばしっぽもみじかくなったみたいだ。

×月×日
もんきちはすっかり人間のこどもになってしまった。 ぼくはびっくりしたけど、
おさるがだんだん人間になるのは科学的なことだから、あんまりびっくりするのははずかしいとおもいます。

×月×日
「おかしなことがあるもんだな」とおとうさんがいった。
「ほんと、それにこんなふしぎなことが、二度もおきるなんて」とおかあさんがいいました。


・・・近くで他のことをしながらなんとなく聞いていた妻が「こわっ」と言った。
外野を無視して、ボクは娘に聞いてみた。「おかしなこと、って?」
娘は「・・・ もんきち、人間みたいになったね」
ボクは続けて、「なんで、『二度も』なんだろ?」
一瞬の間をおいて、娘は急に笑い転げた。6歳児の読解力おそるべし。

2020年12月6日日曜日

もし自分が生まれてこなかったならばどうなっていたか?

 以前の記事「やりたくないこと、なりたくないもの探し」にこう書いた。

「何をやりたいか、何になりたいか」を考えるより、むしろ「何をやりたくないか、何になりたくないか」を考えた方が良いんじゃないだろうか。

 今日も似たようなことを考えた。

「死んだら、どうなるか?」を考える際に、同時に「生まれてこなかったら、どうなっていたんだろう?」を考えると、いろいろ見えてくることがあるんじゃないだろうか。

と。考察を続けよう。
 もし自分が生まれてこなかったならば、自分にとって世界は無い。何も無い。きっとそうに違いない。
 自分が生まれてこなくても、なにがしかのものはあるのかもしれない。けれども、自分が生まれてこなかったのならば、それは自分にはあずかり知らぬこと。自分にとっては、何も無いということだ。今ここにある世界は自分が生まれたから「ある」のであって、もし自分が生まれてこなかったならば、自分にとってはこんな世界は「無い」。きっとそういうことなんだろう。
 その考えに立って「自分が死んだらどうなるか?」と考えると、要するに「生まれてこなかった場合と同じ状況になる」んじゃないか。すなわち、自分にとっては「何も無い」状態になるということ。
 他の人にとっては世界は続くのかもしれない。けれども、それは自分にはあずかり知らぬこと。生まれてこなかった人にとって「無い」のと同様に、死んだ後には何も「無い」んじゃないだろうか。
 それでいいじゃん・・・と考えてみた。

2020年11月26日木曜日

おしんこちゃん と キャベツマン

 今日の夜にオンラインでアンパンマンについて語る(※1)。心の準備以外は特に何の準備もしていないが、でも時間があったのでアンパンマンのテレビ番組を見た。
 BS日テレで毎週月曜〜金曜の朝8時〜9時に以前に放映したアンパンマンのテレビ番組を再放送している。1時間に4話とけっこう盛りだくさんで、今朝それを見たというわけだ。そこで新たに発見したこと3つ。
  • ジャムおじさんとバタコさんはイザナギ・イザナミだから別格として、それ以外の「人間キャラは赤ちゃんマンだけ」かと思いきや、もう1人いた。おしんこちゃんだ。
  • アンパンマンの仲間たちは絶対に共食いをしない」(※2)(アンパンマンはあんぱんを食べないなど)かと思いきや、キャベツマンはキャベツのおしんこを食べていた。
 以上2つは「おしんこちゃんとキャベツマン」の回で出てきた。さらにもう1つ、「ばいきんまんとヘリコプタン」の回での出来事だ。
  • 「アンパーンチ → バイバイきーん → ひゅーん → チカッ」の「チカッと光ったあたりにバイキン城がある」(※3)はずなのだが、ばいきんまんとドキンちゃんが二人同時に飛ばされて「チカッ、チカッ」と2回光った。これは滅多にないことなのだが、これではバイキン城のある場所が特定できない。
 まぁ例外はあるということだ。あくまでも例外ということで。。。

2020年11月13日金曜日

アンパンマン・ネタを初披露

 数学教師芸人・タカタ先生こと 高田 和典 さんと児童文学作家の 久坂 七夕 さんがほぼ毎週木曜日に開催しているZOOMトーク イベント があります。そのイベントの再来週の回に登場させていただくことになりそうです。
 何かしらのゆるいテーマを設定して、その周辺で語り合うのですが、さて何を話そうかなと考えて、今のところ「アンパンマンで行こう」と思っているところです。
 note に投稿 したものをベースに、ブログに投稿 したことを散りばめれば、そこそこまとまった話ができそうです。
 「アンパンマン・ワールドは八百万の神の国」、そんな話です。

2020年10月17日土曜日

反抗期宣言

 俺、しばらく反抗期やるから。3日でやめるか、数年続けるか、それは分からんけど。
 これまでちょっと大人し過ぎた。よっしゃ、反抗期やる。放っておいてくれ。見守っていてくれ。

2020年8月26日水曜日

やろうぜ

何であれ、やれば、広がる。
何にしろ、動けば、繋がる。
何かしら、始めれば、開く。

何でもいいから、やろうぜ。

2019年10月29日火曜日

無宗教

 外国に行くと、「お前の宗教はなんだ?」としばしば聞かれる。そんなとき、「無い」とか「何も信じていない」などと答えてはならない。そう答えたら、「人でない」ことを表明したと受け取られる。
 ところで、我々日本人の宗教観は「無」なのである。無為、無常、無我、無欲、無念、無想。「空」の宗教といってもいいのだが、無であれ空であれ、英語で言うと「Nothing」とか「Empty」になってしまい、結局のところ 「無神論者=人でない=人間社会を破壊する者」と受け取られるのがお決まりである。
 だから他人に宗教を聞かれたら、とりあえず「ブッダ(仏教)」と答えるのがよい。無や空は仏教と関係があるから決してウソではないし、そう答えれば相手に不審がられることもない。何度かそう答えるうちに、自分の中にどのように宗教が生きているか自分で考えることにもなるだろう。

2019年8月29日木曜日

ボケの効用

○ 死ぬのが怖くなくなる。 
○ お金の心配、先の心配をしなくなる。 
○ 生きていることに引け目がなくなる。 

ボケの特効薬は悪魔の薬か?

2019年6月17日月曜日

劇団 BuzzFestTheater 「裏の泪と表の雨」

 先日、劇団 BuzzFestTheater の「裏の泪と表の雨」を観てきました。劇そのものがとても面白かったです。関西系の笑いが盛りだくさんで、西川きよしのギョロ目ネタなどは関東の人にはいまいちピンとこないんじゃないかと思いましたが、シビアな話の中に定番の笑いを公式通りに配置する演出の手法は関西で生まれ育った人ならではのものだろうと思いました。
 もう一つ思ったのは、大阪公演ではだいぶ違った印象を与えるんだろうなということ。西成あいりん地区を実際に知っている人たちが見ると、東京の人の受け取り方とはだいぶ違うんだろうなと。実は僕は関西系の出なので、そんなことを思いました。
 演者の一人、子役さんがうちの娘の友達で、僕はそのママとも知り合いなのでその縁で観に行ったのですが、あれだけレベルの高い大人たちと一緒に活動する経験そのものが彼女にとって大きな力になるでしょう。彼女自身も演劇や映画などたくさん見ると良いと思いました。

劇団 BuzzFestTheater 「黴 -かび-」

生きていれば黴がはえる。アルコールで拭いても決して取れない黴がある。
親子、夫婦、友人、ときには黴を拭き取って、ときには黴とともに暮らす。
中学生の役者さんには年齢不相応とも思える内容だったが、
無菌室で育つより、ときには黴まみれになるのも悪くない。
劇団 BuzzFestThetater の劇「黴 -かび-」を観に行ってきた。今年6月に観た「裏の泪と表の雨」に続いて2度目である。役者の一人が知り合いでその縁で観に行ったのだが、劇そのものがとても良かった。物語の構成・演出が素晴らしい。

2019年5月27日月曜日

一人称の死、二人称の死、三人称の死

 太古の昔から人類は、生活の身近なところに、人の死を常に置いてきた。人類にとって「死とどう向き合うか」が最重要課題だった。宗教にとって「死者をどのように扱うか」が最重要課題だった。
 現代人にとっては、そうでない。確かに現代人には、こなさなければならない課題が、それ以外に多くある。新しい課題に時間と労力を割くのであれば、代わりに何かを取り止めるのは、当然なのかもしれない。けれども現代人が「死」という課題を解決したわけではなかろう。
 ところで、死には3種類ある。
  • 自分の死    (一人称の死)
  • 身近な人の死  (二人称の死)
  • 赤の他人の死  (三人称の死)
自分の死体を見ることはできないし、葬ることもできない。その意味で、自分の死は、自分の経験の外にある。
 テレビドラマに出てくる死は、庭に落ちている虫の死骸と同様に、赤の他人の死である。ペットの死も同じだろう。
 古来から、人が常に身近なところに置いてきたのは、身近な人の死である。特に、家族である。

 人間にとって一番大事な問題は、一人称の死なのだろう。けれども、それを直接扱うことはできない。二人称の死を通して、人は一人称の死を間接的に扱うことができる。それが、宗教の役割だった。三人称の死は、一人称の死とも二人称の死とも関わり合うことがない。
 昔は一年に何度も近所で葬式や法事があり、それに参加したり手伝ったりする機会があった。子供たちも、その中にいた。おそらくは、ずっと昔からそうだったのだろう。
 ボクの実家には仏壇があり、亡くなったじいさん・ばあさんの写真が飾ってあるが、いま住んでる家には無い。変化の速い現代において、大きく変わったことの1つは、二人称の死が遠くなったことである。

幼児と老人が気が合うわけ

ともに、あの世に近いから。


・・・あの世からやってきたばかりの者 と まもなくあの世へと旅立つ者。

咲いてる姿と枯れてる姿、2つあわせて「花」

死を身近に感じてこそ、人はやさしく生きられる。


・・・都会暮らしの核家族には、死は縁遠いもの。

もし人間が不老不死になったら。。。

もし人間が不老不死になったら、地上に人間があふれて、足の踏み場もないことになる。
もしあの世があったら、あの世に人があふれて、どこにも行き場がないことになる。
もし自分だけが不老不死になって、他の人は死ぬとすれば、完全に孤立する。
以上から、やっぱり死んで消えて無くなるのがいいな、という結論に達した。
生命には「自分を修復する能力」と「新しい生命を生み出す能力」があります。そして、どちらを採用するかは、コストの問題です。「古いものを修復して使い続ける」方が安上がりなうちはそうしますが、そうするのは割に合わないと見做せば「古いものを放棄して、新しいものに作り変え」ます。だから、生命には寿命があって、子孫を残すのです。
よわい
  齢 ・・・ それは致死率100%にして、不治の病。

生まれながらにして「余命ン十年、長くてあと100年もつかどうか」と宣告されたようなもの。
コストを無視してまで「修復して使い続けよう」とする動機は、生命にはありません。採算度返しで生き延びようという発想は、生命にはありません。
 でも、古い生命が死ぬ代わりに、子や孫に命が引き継がれます。そういう形で、生命は生き続けます。そしてまた、自分が死んでも、きっと、あるいはもしかしたら生まれ変わる。そういう楽しい物語もあります。
一万年生きるとしたら、私はきっと悲しい。

オレが死んだらライオンのエサにしてくれ

(2011年秋)

こんな遺書を考えた。
オレが死んだら、遺体をライオンのエサにしてくれ。
残ったものは虫のエサに、最後は微生物のエサにしてくれ。
ボクたちは生き物を食べている。レストランでも家庭でも、食事でもおやつでも、ボクたちが口にしているものは、水と塩以外はすべて動植物だ。太古の昔から現代に至るまで、どんなに科学技術が進んでも、その事情は変わらない。
 きのう動物園に行って、園内のレストランで昼食をとっているときに、その考えが浮かんだ。けれどもその場に一緒にいたのが娘とその友達だったから、いくらなんでも場違いだと思って黙っていた。草を食う動物、肉を食う動物を見物して、その途中にボクらは草と肉を食っていた。同類である。
 ボクたちは生き物を、生き物だけを食べている。まわりに人工物があふれている中で、食べ物だけはとことん自然の産物なのである。当たり前のこととはいえ、つい忘れそうになることでもある。そのときはたまたま動物園で思い出した。
 
 人が死んだらその後どうなるか? 自然に帰るというのが1つの答えであるならば、ライオンのエサになるのも選択肢の1つとして悪くない。

2019年5月5日日曜日

☆ 昔話の裏事情

 有名な日本の昔話から5話、うら事情を語ります。うら事情とはつまり色と恋。おそらくそれが本当の姿なのでしょう。
  ◇ 浦島太郎の不倫騒動 
  ◇ かちかち山の報復合戦 
  ◇ かぐや姫の結婚の条件 
  ◇ こぶとり爺さんの不条理 

2019年4月15日月曜日

ちっちゃいものが大好きな人たち

 昔の日本の道は細かった。東海道といえども、山に入ればケモノ道で、里に下りればあぜ道だった。山がちで雨の多い土地だから、集落の辺りだけ木を切り土を踏み固めたが、他は茂みとぬかるみばかりだった。だから隣村に出かけるには、馬車も荷車もほとんど役に立たなかった。人は荷物を手に持ってテクテク歩いた。大名行列が「下にぃー、下にぃー」と進んだのは街中だけで、ほとんどの行程を殿様も姫様もせっせと歩いた。
 日本には、馬に乗って駆け回るような草原はなかったし、荷車を引けるような乾いた平地もなかった。あるのは茂みとぬかるみばかり。平らなところはぬかるんでいて、それ以外のところは生い茂っていた。そこに人ひとりが通れる道を通すのが精いっぱいだった。つい最近まで、日本はこうだったのだ。もちろん、人をして石畳を敷き詰めさせるようなバカも、他人に物を持たせて手ブラで歩く不届き者もいなかった。
 出掛けるからには何がしかの物は持っていくことになる。でも手で持つしかないので、なるべく小さくしたい。そうして日本人は、物をちっちゃくすることにこだわるようになった。ちっちゃいものが大好きになった。風呂敷1枚あれば、大きなものでも小さなものでも包めるし、たためば小さくなってポッケに入る。竹で編んだカゴがあれば、魚でも薪でも赤ん坊でも何でも背負えるし、空になれば実に軽い。
 そのDNAが、ボクら日本人の中に生きている。乾いた現代日本に住むボクらの中にも、厳として生きている。1つは、物作り大国ニッポンの労働者・技術者として。もう1つは、モッタイナイという価値観として。ボクたちのDNAによれば、大きなものは無駄なのだ。たくさん持つのはバカなのだ。モッタイナイの心は、物を動かすことで満たされるのではなく、極力動かさないことで満たされる。

・・・聞きかじった話を寄せ集めて、適当に空想を交えて書いてみました。。。

預言者列伝

 ユダヤ教の預言者モーセと、キリスト教の預言者イエスと、イスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)はいずれも今でいう中東出身者だ。現在の人種・民族の分類でいえば、いずれもアラブ人ということになる。中でもイエスは、彼がもし今生きていたらパレスチナ人と呼ばれることだろう。
 さて、預言者はみんなアラブ人かと言うと、そうでもない。モンゴロイド(モンゴル系の人種)にもいる。ブッダである。彼はインドで教えを広めたが、彼はインド人ではない。ネパール人だ。そして彼はインド系ネパール人ではなくて、モンゴロイドのネパール人なのである。
 仏教は一時インドで広がりつつあったものの、じきに寂れた。一方で、ヒマラヤを越えてチベットに渡り、海を越えて東南アジアに渡って、そこで定着した。彼の教えがモンゴル系であることの証であり、彼がモンゴロイドであったことの証である。
 クリスチャンはイエスを預言者とは呼ばないが、一神教の系譜からすると彼も預言者の一人である。仏教圏で生活する人々はブッダを預言者とはみなさないが、唯一神を信じる人たちの目には預言者に映る。実際、ムスリムははっきりとそう口にする。だから「仏教徒もイスラム教徒も同じだ」と言う。
 
 ところで、預言と予言は違う。予言は「未来のことをあらかじめ言う」こと、預言は「神の言葉を預かる」こと。気象予報士のお姉さんは予言者であって預言者ではない。巫女さんは預言者であって予言者ではない。占い師を予言者とみると詐欺師だが、預言者とみれば聖者である。

2019年4月11日木曜日

言霊信仰

◇ 念仏を唱えれば、誰でも極楽に往生できる。  (親鸞上人)
◇ みんなで平和を祈れば、世界は平和になる。  (憲法9条)
◇ 一人ひとりの心がけで、地球は救われる。  (エコロジー)