2020年2月12日水曜日

みんなで使える素敵な木造校舎

 旧長井小学校第一校舎(→ https://kyunagaisho.jp/ )は、昭和8年(1933年)に建てられて、平成27年(2015年)まで使われていた二階建ての木造校舎。現在は学び・交流の場として一般の人も利用できる施設になっている。場所は山形県長井市。山形新幹線赤湯駅から山形鉄道フラワー長井線で行き着ける。


 廊下の長さは93mあるそうで、かけっこもしくは雑巾掛けをやりたくなる。誰でも無料で使えるスペースもあるし、1教室1週間借り切っても数千円程度。みんなで使える素敵な木造校舎だ。壁いっぱいの黒板(緑色)も使えるし、蝶番が木製だったりして、学芸部の合宿で使ったら楽しそう。東京からはちょっと遠いか。

2020年2月2日日曜日

☆ 答えのある問題 と 答えの無い問題

◇ 正誤の問題 と 意思の問題 
◇ 答えのある問題 と 答えの無い問題 
◇ オープン・エンドな問題 と クローズド・エンドな問題 

正誤の問題 と 意思の問題

 記事「そもそも議論とは何なのか?」に戻るわけではありませんが、ここで似たようなことを考えます。
◇ 議論とは何なのか?
いや、全く同じことを考えようとしているわけではないんです。何が言いたいのかというと、この問題は「正しいか間違っているか」という「正誤の問題」ではなくて、「どのようにとらえるか」という「意思の問題」だということです。
 みなさん、お気づきでしょうか? 世の中の多くの問題は「正誤の問題」ではなくて、「意思の問題」だということを。たとえば、
◇ 今日の昼メシは、マックにしようか? それともラーメンにしようか?
これは、どっちが正しいかという問題ではありません。どちらを選択するかという意思の問題です。この例は自明でしょうけれど、
◇ 何ベクレルまでなら食べても大丈夫か?
という問題も同じです。これは「どこまで許容するか」という意思の問題です。これを正誤問題ととらえると、議論が無意味なものになってしまいます。放射線量が低いに越したことは無いのですが、ゼロ・ベクレルのものだけを食べるのでは生きていけませんから。
◇ 太陽が地球の周りをまわっているのか? それとも地球が太陽の周りをまわっているのか?
これも同じです。別にどちらの立場に立っても構わないのです。両方とも正しいのです。問題は「どっちが正しいか」ではなくて、「どちらの見方をした方が宇宙を理解しやすいか」ということであって、誰かが(たぶん専門家たちが)「地球が太陽の周りをまわっている」ととらえた方が理解しやすいだろうと判断して、「そのように考えることにしよう」と決めたのです(ちなみに、「太陽は東から昇って西に沈む」という言い方は「太陽が地球の周りをまわる」という天動説的な立場の表現ですが、間違いではありません)。だから、この件も意思の問題なのです。他には、
◇ 原発は安全か?        とか、
◇ 日本の年金制度は破綻するか? とか、
◇ 宇宙に果てはあるか?     とか、
これらも全部、意思の問題なのです。これらを正誤問題だと考えるから、混乱したり炎上したりするのです。
 それにしても、学校のせいか、テレビの影響か、いろんな問題を正誤問題だと勘違いする人が多い。学校では事あるたびに○×をつけ、テレビでも○×クイズばっかりやってます。その効果がてきめんに出ているということでしょう。それはそうと話を戻すと、私は
◇ 議論というものをどのようにとらえたら良いか?
というその「とらえ方」を提案したいわけです。ですから、まず私にとってこれは意思の問題です。そして、みなさんにとっては、私の提案を受け入れるか否かという意味で、やっぱり意思の問題だと思うのです。
 それを提案することで私がみなさんに期待するものは、納得です。理想的には、共感です。ところで、私がそこに書くことに対して「それは違う!」とか言われても困るのです。私は「正しいこと」なんて何一つ言うつもりはないのですから。

答のある問題 と 答の無い問題

 論理式は「そぎ落とす」論理です。ニュアンス(豊かさ)をそぎ落とし、あいまいさ(境界)をそぎ落とし、背景(個別事情)をそぎ落として、骨格だけを抜き出して、真偽判定に持ち込みます。一方、議論の論理は「取り込む」論理です。いろんな見方・考え方を取り込み、異論・反論を取り込みます。また、他人の共感を得るという意味では、他人の受け取り方・理解度までも取り込みます。
 別の言い方をすると、論理式は「答のある問題」です。議論は「答の無い問題」です。論理式は、議論の中の一部分で道具としては有効に使えますが、論理式をいくら駆使しても議論の答えは出てきません。同じように、「答のある問題」は「答の無い問題」に取り組むときに道具として使えますが、「答のある問題」が「答の無い問題」に答えを与えてくれるわけではありません。議論に真偽判定に持ち込んだら必ず偽になるように、答えの無い問題に「正しい答え」を求めたら、問題そのものが成り立たなくなります。
 さて、「正しい答え」を求めないなら、議論することで何を求めればいいのかというと、「暫定的な仮の答え」ということでいいんじゃないでしょうか。その形の1つは「意思決定」です。それが「絶対に正しい答え」でないことを承知のうえで、適当なタイミングで判断するということは、実社会では当たり前にあることです。そしてそれは、その後に「変わりうる」ものです。
 俗に「答えの無い問題」と言いますが、本当は答えが無いのではなく、「答えが変わりうる問題」なのです。ということは、問いも変わりうるのです。そして、なぜ問いと答えが変わるかというと、議論の論理が「取り込む」論理だからです。取り込む余地はいくらでもあります。時間とともに、あるいは自分が成長するのに伴って、いくらでも変わりうるのです。取り込んでどんどん豊かになるから、問いも答えも変わるのです。
 これは「答えのある問題」にはありえないことです。答えのある問題では、どこかに必ず「正しい答え」があります。しかも、それは「変わらない」ものです。学校のテストの問題には先生があらかじめ仕込んだ答えがあります。というより、実際には答えから逆算にして問題を作っています。それが「正しい答え」になるように、ニュアンスやあいまいさや背景をそぎ落として、「答えが1つに決まる」ように問題文を作っています。ですから、その問題に答えがあるのは当たり前なのです。というより、答えが無かったら「問題の不備」なのです。学校で扱う問題に限らず、なぞなぞでもクイズでも検定試験でも「答のある問題」とはそういうものです。
 問いと答えはいつもセットです。がっちりした答えが先にあって、そこに行き着くように作られたものが「答のある問題」です。答えが見えないけれど、何とかしなければならない課題や漠然とした疑問が先にあって、考えるための取っ掛かりとしてとりあえず立てた問いが「答の無い問題」です。そのようにとらえてもいいでしょう。
 答えのある問題とは、典型的には学校の授業や試験で出される問題でしょう。けれども、学校から一歩外へ出ると、生活を送る上であるいは仕事上で出くわす問題は、その多くが答の無い問題です。答えの無い問題は実は問いが必ずしも定まっていない問題で、答えが見えてくるにつれて問いも少しずつくっきりしてきます。そして、問いも答えも変わっていきます。その「変わりうる答え」がすなわち「暫定的な仮の答え」で、所々でそれを手にしながら、問いと答えの両方を書きかえていくことが、議論する目的であり、考えることだと私は思うのです。

オープン・エンドな問題 と クローズド・エンドな問題

 英語に「オープン・エンド」と「クローズド・エンド」という言葉があります。「オープン・エンド」は直訳すると「終わりが開かれている」ということですから、つまり「終わりが決められていない」という意味です。それは「終わりが無い」ということでもありますし、「いつ終わってもよい」ということでもあります。もう一方の「クローズド・エンド」は直訳すると「終わりが閉じている」ということですから、つまり「終わりが決まっている」という意味になります。
 使い方は、例えばアンケートでいうと「YesかNoか」で答えられるような質問が closed ended question で、「お気づきの点をご自由にお書きください」のような質問が open ended question です。あるいは投資信託でいうと、満期まで換金(解約)できないようなものがクローズド・エンド型で、いつでも換金(売却)できるようなものがオープン・エンド型です。そしてもう1つ、「答えのある問題」がクローズド・エンドな問題で、「答えの無い問題」がオープン・エンドな問題です。そのように使います。
 「答の無い問題」とは実は「問いも答も変わりうる問題」で、なぜそうなるかというと、どんどん「取り込む」からです。そこで出てくるのは「暫定的な仮の答え」であって、それも状況が変わればいつでも変わります。場合によっては、いつまでも続きます。「永遠のテーマ」という言葉もありますが、オープン・エンド(終わりが開かれている)というのはそういうことです。
 一方の「答えのある問題」は即答するのが基本です。まず初めに「絶対に正しい唯一の答え」があって、そこに答えが行き着くように問題が作られているからです。クローズド・エンド(終わりが決まっている)というのはそういうことです。ですから、答えのある問題から見れば、答えの無い問題はまどろっこしく見えるでしょう。

 そのまどろっこしさに耐えきれなくなって起きる現象が炎上です。その議論を「答のある問題」と受け取れば、答えはすでに「ある」のですから、時間をかけてじっくり検討する必要などないのです。それをあぁだこぅだ言うのは、時間の無駄なのです。ましてや問いが変わるなんてことがあってはならないのです。それを「答えのある問題」と受け取れば、そういうことになります。
 そして、議論は「シロクロはっきりさせよう」という方向に進んでいきます(議論した成果を基にして「判断=意思決定」することはありますが、それと「シロクロはっきりさせる=真偽判定」ことは全く別物です)。でも「自分の論がシロ(真)だ」と示せるはずがありませんから、そうなると人は「相手の論はクロ(偽)だ」と言おうとします。こうして、自分の論を支える根拠を挙げる(広い視野で見なければならないから、難しい)ことよりも、相手の論を否定する(視野を狭めればよいので、簡単です)ことに精を出すようになります。
 そうこうするうちに、日本人お得意の婉曲表現が始まります。「はぁ?お前、いったい何を言ってるんだ?」と。「おぃおぃ、いい加減にせぇよ」と。万葉の時代から続く論点ズラしのDNA、説明せずにフィーリングを伝えようとするDNAが動き始めるわけです。
 同時に、議論は勝ち負けの様相を呈してきます。人の感情の中で、真偽は、勝ち負けに簡単に結びつくようです。そして、相手は間違っているのだから、それを言う自分は正しいのだから、それを認めない相手に認めさせようとするわけです(本当は相手の納得を得られるような説明をするべきで、それが得られなかったらそこで終わりなんです)。そうこうするうちに、婉曲表現の一形態である揶揄表現が入り混じります。そしてだんだん言葉使いが荒くなってきます。
 なにか大きな勘違いをしていると思いませんか?
 ネット時代になって、文字だけで情報交換する機会が増えて、そうなるとこれまで以上にきちんと説明しなければならないはずなのに、説明しないという習性は相変わらずで、でも文字だけで表現しなければならないという制約から、語調・語感に頼る傾向がますます強くなっている、そのように私は感じています。
 でも、根本的な勘違いはそこじゃありません。「正しい論理」と「議論の論理」の区別がついていないことがそもそもの勘違いなのではないでしょうか。