英語に「オープン・エンド」と「クローズド・エンド」という言葉があります。「オープン・エンド」は直訳すると「終わりが開かれている」ということですから、つまり「終わりが決められていない」という意味です。それは「終わりが無い」ということでもありますし、「いつ終わってもよい」ということでもあります。もう一方の「クローズド・エンド」は直訳すると「終わりが閉じている」ということですから、つまり「終わりが決まっている」という意味になります。
使い方は、例えばアンケートでいうと「YesかNoか」で答えられるような質問が closed ended question で、「お気づきの点をご自由にお書きください」のような質問が open ended question です。あるいは投資信託でいうと、満期まで換金(解約)できないようなものがクローズド・エンド型で、いつでも換金(売却)できるようなものがオープン・エンド型です。そしてもう1つ、「答えのある問題」がクローズド・エンドな問題で、「答えの無い問題」がオープン・エンドな問題です。そのように使います。
「答の無い問題」とは実は「問いも答も変わりうる問題」で、なぜそうなるかというと、どんどん「取り込む」からです。そこで出てくるのは「暫定的な仮の答え」であって、それも状況が変わればいつでも変わります。場合によっては、いつまでも続きます。「永遠のテーマ」という言葉もありますが、オープン・エンド(終わりが開かれている)というのはそういうことです。
一方の「答えのある問題」は即答するのが基本です。まず初めに「絶対に正しい唯一の答え」があって、そこに答えが行き着くように問題が作られているからです。クローズド・エンド(終わりが決まっている)というのはそういうことです。ですから、答えのある問題から見れば、答えの無い問題はまどろっこしく見えるでしょう。
そのまどろっこしさに耐えきれなくなって起きる現象が炎上です。その議論を「答のある問題」と受け取れば、答えはすでに「ある」のですから、時間をかけてじっくり検討する必要などないのです。それをあぁだこぅだ言うのは、時間の無駄なのです。ましてや問いが変わるなんてことがあってはならないのです。それを「答えのある問題」と受け取れば、そういうことになります。
そして、議論は「シロクロはっきりさせよう」という方向に進んでいきます(議論した成果を基にして「判断=意思決定」することはありますが、それと「シロクロはっきりさせる=真偽判定」ことは全く別物です)。でも「自分の論がシロ(真)だ」と示せるはずがありませんから、そうなると人は「相手の論はクロ(偽)だ」と言おうとします。こうして、自分の論を支える根拠を挙げる(広い視野で見なければならないから、難しい)ことよりも、相手の論を否定する(視野を狭めればよいので、簡単です)ことに精を出すようになります。
そうこうするうちに、日本人お得意の婉曲表現が始まります。「はぁ?お前、いったい何を言ってるんだ?」と。「おぃおぃ、いい加減にせぇよ」と。万葉の時代から続く論点ズラしのDNA、説明せずにフィーリングを伝えようとするDNAが動き始めるわけです。
同時に、議論は勝ち負けの様相を呈してきます。人の感情の中で、真偽は、勝ち負けに簡単に結びつくようです。そして、相手は間違っているのだから、それを言う自分は正しいのだから、それを認めない相手に認めさせようとするわけです(本当は相手の納得を得られるような説明をするべきで、それが得られなかったらそこで終わりなんです)。そうこうするうちに、婉曲表現の一形態である揶揄表現が入り混じります。そしてだんだん言葉使いが荒くなってきます。
なにか大きな勘違いをしていると思いませんか?
ネット時代になって、文字だけで情報交換する機会が増えて、そうなるとこれまで以上にきちんと説明しなければならないはずなのに、説明しないという習性は相変わらずで、でも文字だけで表現しなければならないという制約から、語調・語感に頼る傾向がますます強くなっている、そのように私は感じています。
でも、根本的な勘違いはそこじゃありません。「正しい論理」と「議論の論理」の区別がついていないことがそもそもの勘違いなのではないでしょうか。
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