2020年2月2日日曜日

答のある問題 と 答の無い問題

 論理式は「そぎ落とす」論理です。ニュアンス(豊かさ)をそぎ落とし、あいまいさ(境界)をそぎ落とし、背景(個別事情)をそぎ落として、骨格だけを抜き出して、真偽判定に持ち込みます。一方、議論の論理は「取り込む」論理です。いろんな見方・考え方を取り込み、異論・反論を取り込みます。また、他人の共感を得るという意味では、他人の受け取り方・理解度までも取り込みます。
 別の言い方をすると、論理式は「答のある問題」です。議論は「答の無い問題」です。論理式は、議論の中の一部分で道具としては有効に使えますが、論理式をいくら駆使しても議論の答えは出てきません。同じように、「答のある問題」は「答の無い問題」に取り組むときに道具として使えますが、「答のある問題」が「答の無い問題」に答えを与えてくれるわけではありません。議論に真偽判定に持ち込んだら必ず偽になるように、答えの無い問題に「正しい答え」を求めたら、問題そのものが成り立たなくなります。
 さて、「正しい答え」を求めないなら、議論することで何を求めればいいのかというと、「暫定的な仮の答え」ということでいいんじゃないでしょうか。その形の1つは「意思決定」です。それが「絶対に正しい答え」でないことを承知のうえで、適当なタイミングで判断するということは、実社会では当たり前にあることです。そしてそれは、その後に「変わりうる」ものです。
 俗に「答えの無い問題」と言いますが、本当は答えが無いのではなく、「答えが変わりうる問題」なのです。ということは、問いも変わりうるのです。そして、なぜ問いと答えが変わるかというと、議論の論理が「取り込む」論理だからです。取り込む余地はいくらでもあります。時間とともに、あるいは自分が成長するのに伴って、いくらでも変わりうるのです。取り込んでどんどん豊かになるから、問いも答えも変わるのです。
 これは「答えのある問題」にはありえないことです。答えのある問題では、どこかに必ず「正しい答え」があります。しかも、それは「変わらない」ものです。学校のテストの問題には先生があらかじめ仕込んだ答えがあります。というより、実際には答えから逆算にして問題を作っています。それが「正しい答え」になるように、ニュアンスやあいまいさや背景をそぎ落として、「答えが1つに決まる」ように問題文を作っています。ですから、その問題に答えがあるのは当たり前なのです。というより、答えが無かったら「問題の不備」なのです。学校で扱う問題に限らず、なぞなぞでもクイズでも検定試験でも「答のある問題」とはそういうものです。
 問いと答えはいつもセットです。がっちりした答えが先にあって、そこに行き着くように作られたものが「答のある問題」です。答えが見えないけれど、何とかしなければならない課題や漠然とした疑問が先にあって、考えるための取っ掛かりとしてとりあえず立てた問いが「答の無い問題」です。そのようにとらえてもいいでしょう。
 答えのある問題とは、典型的には学校の授業や試験で出される問題でしょう。けれども、学校から一歩外へ出ると、生活を送る上であるいは仕事上で出くわす問題は、その多くが答の無い問題です。答えの無い問題は実は問いが必ずしも定まっていない問題で、答えが見えてくるにつれて問いも少しずつくっきりしてきます。そして、問いも答えも変わっていきます。その「変わりうる答え」がすなわち「暫定的な仮の答え」で、所々でそれを手にしながら、問いと答えの両方を書きかえていくことが、議論する目的であり、考えることだと私は思うのです。

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