2019年5月1日水曜日

はじめての要約

(2007年4月)

 昨日の授業で「ポツダム宣言を要約する」をやりました。まず、その報告です。(教材は こちら をどうぞ)

 課題を見た途端、生徒が『なんじゃこりゃぁ!?』と驚くかなと思っていたのですが、そんな反応は特にナシ。妙に素直に「じゃぁやるしかないな」って感じで始まりました。
 50分の授業のうち、最初の5分で課題説明とパソコン起動。続く40分間、生徒は資料を見ながらパソコンをパタパタ。その間、ボクはボォーとしてました。最後の5分でプリントアウトしてパソコンをシャットダウン。なんとか全員、提出できました。
 さて、問題は中身なんですね。生徒が書いたものを、とりあえずパラパラっと見てみました。また、授業の後に何人かの生徒をつかまえて「どうだった?」と聞いてみました。それらをもとに、いまどきの高校生を斬って(?)みます。
 これから書くことは、「全体的に見たときの」ボクの見方です。例外は探せばいくらでも出てきます。またボクにとってのサンプルは、ウチの学校の生徒の分しかありません。それを承知で、始めます。

 やってみて気付いたこと、それは生徒たちには「要約する」という経験がほとんどないということです。

  • 国語の時間には、文章をとにかくじっくり読む。落としたコンタクトレンズを探すときのような、まなざしで。
  • 英語の時間には、テキストの全文を和訳し、あるいは短い和文をまるごと英訳する。
  • 社会の時間には、要約するのは先生。生徒たちはそれをじっと待って、試験前の暗記に備えてノートする。
  • ・・・(あーぁ、書いててイヤになってきた)・・・

 別の言い方をしましょう。
 先生は、答えが一つに決まるものしかやりたがらない(もしくは、出来ない)んです。だから生徒は、それに答えることこそが勉強だと思っています。この時点で「要約」がカリキュラムに入り込む余地はありません。
 えっ、「学校だったら、しょっちゅう作文や感想文を書いてるだろう!」って? 確かにそうです。しかし、作文や感想文では、思いついたことを書き散らして字数を埋めるだけです。要するに、作文も感想文も何を書いてもいいわけです。「ナンでもアリ」なんですね。
 しかも事実上、先生はこれを評価の対象としません(つまり、点数をつけません)。具体的にいうと、比較的出来の良いものをピックアップするだけで、結果として大半のものをムシします。ですから、生徒にとっては「ナンでもアリ→テキトーに書いて出せばいい」となるわけです。
・・・(あーぁ、だんだんカナシクなってきた)・・・

 ほぅら、「要約」なんて、どこにもないでしょ! どうも、生徒が「要約」するのは、この課題が初めての経験だったようです(・・・高校1年生ですよ・・・)。だとすれば、生徒がこれをうまくこなせないのは仕方がないんです。
 今回の授業で生徒が書いたもの、パラパラっと見た感じでは、次の2つのパターンのどちらかが多そうです。
パターン1:
正確に忠実にやろうとして、「1行条件」の壁の前で立ち止まる。
もしくは、一部のわかりにくい表現の前でフリーズする。
「唯一の正解を求める」姿勢が染み付いているんでしょう。
パターン2:
テキトーに行を埋めるものの、自分でも内容がつかめていない。
もしくは、設問をムシして、得意の「感想」を書く。
「自由に、思ったとおりに書きなさい」という作文指導の賜物ですね。
「答えが1つに決まるもの」をベースに置きつつ、「好き勝手に書くこと」をちりばめる。作文を書かせる回数は多いが、書き方の指導をしない。トレーニングもしない。マニュアルもフォーマットもない。「ポイントを押さえる」とか「わかりやすくまとめる」とか、そんな「かけ声」はあっても、「実践」はない。これが、ニッポンの学校なんです。

 生徒が書いたもの、これからじっくり読んで、10段階で評価します。
・・・(泣いてる場合じゃないぞ!?)・・・

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