誘惑の「誘」は訓読みでは「誘(さそ)う」または「誘(いざな)う」である。さて「いざなう」という音は、古事記神話に出てくる伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)と同じである。後ろについている「岐(ギ)」と「美(ミ)」はそれぞれ男と女を表している。ということは、イザナギは「誘う神の男版」、イザナミは「誘う神の女版」、それを表すネーミングだと解釈できる。
では、イザナギとイザナミは誰を何に誘っているのか。まず「誰」については「お互いに」ということになるだろう。古事記の記載を見る限り、他の誰かを誘っているような場面は見当たらない。だから「お互いにお互いを誘っている」としか受け取りようがない。
次に、かの神は何に誘っているのか。これも古事記を読む限り、「国産み」に決まるだろう。一人で国を産むことはできない。相手が誘いに乗ってくれることが国産みの条件である。だから、お互いに「国を産もうよ」とお互いを誘っている。これがイザナギ・イザナミの本性と言えるだろう。
古事記には、その誘(いざな)いの仕方、すなわち「いかにして相手を誘惑し、誘導するか」が具体的に書いてある。(→ https://omori55.blogspot.com/2019/03/blog-post_40.html )
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