2019年4月3日水曜日

古事記の成り立ち

 古事記が書かれたのが712年、日本書紀が出来上がったのが720年。645年の乙巳の変(大化の改新)、672年の壬申の乱が人々の記憶に残っている頃のことである。
 乙巳の変は政権内部のクーデターであり、壬申の乱は政権内部の軍事衝突である。この2つの暴力で権力を手にして、その後まもなく書かれたのが古事記であり、日本書紀だった。乙巳の変から古事記編纂まで、世代にして2世代くらいの時間の中での出来事である。
 それらは日本で初めての歴史書だった。つまりそれ以前の記録はなかったわけだ。さて、この状況下でどんな歴史書が書かれるだろうか。推理してみよう。

 まず、2度の政変で負けた側はほとんどが死んで、勝ち残った側が歴史書を書こうというのだから、客観的な歴史を刻めるはずもない。勝った側の論理で記述することになるだろう。
 それ以前のことはおぼつかない。人々の記憶に残るのは、祖父母たちから聞いた話を覚えているとして、さかのぼれるのはせいぜい2世代前までだろう。というよりこの場合は、政権を奪取したばかりの者たちにとって、それ以前の歴史を忠実に再現する意味はない。
 そのように考えると、古事記と日本書紀は
◇ 乙巳の変以前の出来事は作り話で、
◇ 乙巳の変から壬申の乱までは勝者の論理で書き連ねたもの
と考えるのが妥当だろう。
 では、この時点で歴史書を編纂した狙いは何かというと、それは壬申の乱から歴史書編纂までの出来事ならびに古事記・日本書紀の記述をみればわかる。年表をもとに確認しよう。

  <乙巳の変>         <壬申の乱>    <歴史書編纂>

   中大兄皇子 ───┬─ (子)大友皇子
  (天智天皇・38代)  │
      │     └─ (子)持統天皇・41代 → →
      │             ‖
      │             ‖──(子)草壁皇子 ─(孫)文武天皇・42代
      │             ‖
      └─────── (弟)天武天皇・40代
                 (大海人皇子)
 
   中臣鎌足 ────── (子)藤原不比等 → → →
  (藤原鎌足)

 乙巳の変の首謀者が中大兄皇子と中臣鎌足で、中大兄皇子は天智天皇(38代)となった。天智天皇の死後に起きた後継者争いが壬申の乱で、天智天皇の子・大友皇子が敗れ、弟の大海人皇子が勝って天武天皇(40代)となった。天武天皇の死後、妻が引き継いで持統天皇(41代)となった。天武と持統の間の子・草壁皇子はすでに死んでいたので、持統の次は孫の文武天皇(42代)となった。日本書紀の記述はそこで終わっている。

 ポイントは2つ。1つ目は、この図の中で女帝は一人だけであること。持統天皇である。2つ目は、持統の次に持統の孫が皇位についたこと。文武天皇である。この構図すなわち「女帝から孫に皇位を継承する」ことが、天孫降臨すなわち「アマテラスの孫ニニギノミコトが地上の神となる」物語とぴったり符合するのである。
 アマテラスは天照(あまてらす)である。すなわち母なる太陽神である。ではニニギノミコトとは何者か。漢字で書くと瓊瓊杵尊となるが、その名の由来は何かというと、要するに「ニギニギの子」である。ニギニギする仕草がとってもかわいい赤ちゃんだ。そうに違いない。持統にとって、文武はまさにそういう存在だった。
 乙巳の変と壬申の乱を通じて、権力は暴力によって移った。そうして権力の座についた持統が願ったのは、そこから先の権力が持統の子孫に引き継がれることだった。万世一系の皇位の継承である。
 赤ちゃんが大きくなるまでの間、おばあちゃんが政権をしっかり守ろうとした。持統のその思いを物語仕立てに組み立てたものが古事記であり日本書紀だった。そう考えると、しっくりくる。裏で糸を引いていたのは藤原鎌足の子・不比等だろう。そして結果として持統の願いはかなった。藤原不比等の子孫はその後数百年にわたって栄えた。その物語がいまだに生きていること、そして日本人の心を形作ったと考えると、2人の狙いは大成功したと言えるだろう。


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