2019年3月20日水曜日

「なごり雪」はなぜ切ないのか

 なにはともあれ「なごり雪」の歌詞。2番は省略。(作詞:伊勢正三)

汽車を待つ君の横で 僕は時計を気にしてる
季節はずれの 雪が降ってる
東京で見る雪は これが最後ねと
さみしそうに 君がつぶやく
なごり雪も 降るときを知り
ふざけすぎた 季節のあとで
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった
       :
君が去った ホームにのこり
落ちてはとける 雪を見ていた
今 春が来て 君はきれいになった
去年よりずっと きれいになった

 さて、「君」はどこに行こうとしているのか。「僕」はどこで見送っているのか。
 ふと思い浮かんだのだが、葬儀場から火葬場に向かう遺体を見送る場面。そもそも昭和の高度成長期にあって、二度と戻らない覚悟で東京を去って地方に向かうというのは不自然な設定だ。そこで、東京を去って向かう先があの世だと想定してみよう。
 「汽車を待つ君」「時計を気にする僕」そして雪が舞う景色、これは出棺の光景だ。なごり惜しいけれど、時は過ぎてゆく。「ふざけすぎた季節」はつい先日までの苦しかった記憶。そしていま目の前にいる「君」に「きれいになったね」と声をかける。だから「なごり雪」は切ないのである。

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