2019年4月9日火曜日

ご利益 と 利益

 「ご利益」は「ごりやく」と読むが、丁寧語の「ご」を外すと「利益」となって、読み方も「りえき」と変わる。そして、意味も大きく変わる。
 ご利益は神様に対して使われて、利益は経済活動の中で使われる。
 利益とは、お金が増えることを指す。そこで問題になるのは量だけだ。質は問題にならない。すなわち、利益というとき、その文脈はひたすらお金の話であり、しかも量の視点しかないのである。
 一方、ご利益というのはお金の話に限らないし、量よりも質が問題になる。たとえば縁結びというご利益があるが、たくさんの人と付き合いたいというわけではなくて、良い縁に巡り合いたいということである。やっぱり量を問題にしているのではなくて、質を問題にしている。もちろんお金の話は直接には関係ない。
 ところで、そもそもニッポンの神はご利益をもたらすようなものではない。というのは、もともとニッポンの神は祟り(たたり)や呪い(のろい)や障り(さわり)なのであって、ご利益どころか、むしろ(わざわい)をもたらすものなのである。だからそれを鎮めるために、奉る(立て祀る)のだ。つまり、神がをもたらさないように、それを封じる仕掛けが神社である。その意味では、神社の役割は除け(やくよけ)であると言ってよい。
 そう言うと除けというご利益があるように聞こえるかもしれないが、それも違う。というのは、神社の役割としての厄除けは、そこで祀られている神がをもたらすから、そうならないようにその神を祀るという意味であって、その神とは無関係のを外から持ち込んでも何の効果も無いのである。年だからを除こうとして除けを祈願しても、そんなことは神の知ったこっちゃぁないのである。神は人間に頼まれてしばらく悪さするのを控えてやっているだけなんだから、自ら進んで他の神のもたらすを取り除いてやる義理も道理も無いのである。
 では、をもたらす神になぜご利益があることになるのかというと、そこには日本人特有の逆転の発想がある。祟りの井戸を福井といい、呪われた島を福島といい、厄の岡を福岡という、こういう能天気さは日本人に普遍である。考えてもみてほしいのだが、福の井戸、ハッピーな島、ラッキーな岡などというものが、最初からあるわけない。もともとは祟りの井戸、呪いの島、厄の岡だったに違いなのである。
 そんな例を出すまでもなく、祟りや呪いや障りを神とあがめてしまうのが日本人なんだから、(やく)をご利益(ごりやく)にしてしまうことなどいとも簡単なのである。現実には、こじつけの「ご利益」を謳って、神社が「利益」(りえき)を上げているのだろう。「災い転じて福としちゃう」の心で、マイナス面をプラスに語り、ありもしないご利益をさもあるかのように有難がる。呪い(のろい)を祝い(いわい)、祟り(たたり)を崇めて(あがめて)、(わざわい)を笑う(わらう)、それが日本人の心である。だから、それでいいのである。

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